+++  チョコレートをご馳走さま  +++

 

−1−

 

 年に一度の、‘あの日’がついにやって来た。待ちに待った、‘あの日’。

今日という日に向けて、文香は自分の中の努力を総動員して、甘いものを

口にするのを控えてきた。そのほうが、より一層良くなるだろうということが

分かっているからだ。

 

 彼女が働く生花店は、商業ビルの地下にあった。たくさんのテナントが

立ち並ぶこのビルの地下は、街の中心地という立地条件のよさや各交通機関

に通じているということもあって、いつも人で賑わっている。

 冬の寒さも、この地下では全く感じることがなく、文香は着ているブラウスの

袖をまくって作業をしていた。

 店内で小さく流しているラジオから、懐かしい80年代の邦楽が流れてきた。

思わず、今日という日の期待感から気分が高揚していることもあって、文香は

フレーズを口ずさむ。

 店長が40歳半ばの男性なので、彼の趣味で店内のBGMは地元のラジオ局に

合わせられている。文香と同じ時期に入社した智子は、頼むからせめてFMラジオに

してくれ、と店長に言っていたが、「地元の情報はAMやろ」と一蹴されていた。

‘せっかくお店を改装して、お洒落にしても、BGMがこれじゃね’と、たまに流れてくる

演歌に目を細めながら智子は文香に耳打ちしたものだ。

 

 ラジオの時報が、正午12時を知らせた。同時に、賑やかなテーマ曲とともに、

更に賑やかなおしゃべり声がラジオから流れる。この局で人気の男性パーソナリティ

3人によって、もう10年も前から毎日放送されている名物番組だ。

 「いやあ、しかし今日はバレンタインデーやね」

 「ほんとやね。あんたチョコもらった?」

 「もらうわけないやん、この時点で一個もナシですよ」

 「さっきね、俺アナウンス室で鴨志田見かけたっちゃけど、」

 「鴨志田か!悔しいね、いっぱいもらっとろうや?」

 「そう、奴の机はチョコレートの箱がてんこ盛りになっとった」

 「そうやろうね。鴨志田が颯爽と廊下を歩けばチョコが飛ぶってぐらいやけんね、

毎年」

 スタジオで笑い声とともに、このようなおしゃべりが延々と続いている。

 やった、と、文香はかすみ草の束を扱っていた手元を止めて小さくガッツボーズを

作った。今年も大収穫らしい。1人でにやける顔を、店長に見つからないようにして、

彼女は早く仕事が終わることを一心に祈っていた。

 

 「ただいま・・・・・・」

 疲れ切った顔で浩輔が彼のワンルームマンションに帰ってきたのは、午後8時過ぎ

だった。

 「おかえり」

 と、文香は嬉々として玄関に駆けていく。

 「今日来てたの」

 そう言って浩輔は靴を脱ぎながら、自分の恋人の顔を玄関の薄明かりの下で眺めた。

合鍵を渡しているのでほぼ3日と空けずに文香が来て、夕食を作ってくれる。

 そして、今日はもちろん、来ているだろうな、とおおかた彼は予想していた。

自分が一番心安らげる、彼にとって美しい文香の顔をもっとよく見たい、と思っても、

今の彼女の目線は、彼が両手に下げた紙袋いっぱいに入った、色とりどりの箱たちだ。

これも予想通りだったので、彼は苦笑いして部屋に上がった。

 「今年もいっぱいもらったのね」

 うきうきした様子を隠さずに、文香は浩輔の顔を伺った。彼は、困ったような顔をして、

うん、とだけ頷く。

 「さあ、今年もありがたく、皆さんからの想いを開封いたしましょうか」

 わざと明るくそう言って、文香は浩輔から2つの重い袋を受け取って床に座った。

ええと、これは名前が書いてある分、これは・・・・・・、無記名。これは、あら、アナウンス部

女子一同だって。大きいのね。それからこれは・・・・・・、住所まで書いてある。

 楽しそうに色々と呟きながら、子供のように箱を仕分けしている文香を、浩輔はスーツの

上着を脱ぎネクタイをほどきながら見ていた。

 「クリスマスの朝の子供みたいだね」

 その言葉にチラと浩輔を見た文香は、少し憮然とした顔を返した。

 「わざと嬉しそうにしてるの。本当は嫉妬でドロドロよ」

 「そうかなあ。じゃあ、今年は中身は俺が食べるから開けるなよ」

 ふうん、いいわよ。という顔をした文香がおかしくて、浩輔はニヤリと笑った。そして、

冷蔵庫から彼の好きな烏龍茶を取り出して、缶を開けながら言った。

 「嘘です。いいよ、食べなよ」

 「やった!」

 その言葉を待っていたように、文香は‘くださった皆様、ごめんなさい。チョコレート、いた

だきます’と両手を合わせて頭を下げ、手元の1箱を丁寧に開封しつまんだ。

 「ううん、これはおいしい。さすがゴディバね。名前がないのにゴディバなんて、本気ね、

この人は。どこでもらったか覚えてる?」

 「分からないなあ。局の入り口でも一般の方から何個か頂いたしなあ」

 頭を掻きながら、文香の隣に腰を下ろした。

 「本当なら、俺も1つは口にしないといけないんだろうけど・・・・・・」

 「無理でしょ。しょうがないわよ」

 と、文香は2箱目を開けている。浩輔は、甘いものが全く苦手なのだ。洋菓子も和菓子も、

身体が受け付けない。それとは対照的に、恋人の文香は甘いものが大好物、特に

彼女のチョコレート好きは浩輔が一生理解できない、と思うほどで、高校時代からの

付き合いである2人はこうやって毎年、バレンタインデーに浩輔が貰ってくるチョコレート

を文香がきちんと把握し(そして食べ)、3月のホワイトデーには名前の分かる相手には

彼女がお返しを用意して持たせる、という流れができていた。

 「そうそう、今日ね、お昼の番組で、あなたのこと言ってたわよ」

 「横田さんたち?なんて?」

 「またいつもの、鴨志田遊び。チョコの山が机にあっただのなんだの。笑っちゃった」

 「参ったなあ」

 「浩輔が好きなのよ」

 「好き、ねえ」

 浩輔の勤める放送局では、アナウンサーとして入社すると何人かはすぐに3ヶ月間ほど

あの番組に出演する。定時に報道フロアからニュースを読むだけの日もあれば、3人に

交ざってスタジオでパーソナリティーとして参加する日もある。

 浩輔は、新人らしいフレッシュさと、彼の持つ天然系のキャラクターで一気に3人の

おもちゃと化し、50歳代の女性リスナーから「鴨志田アナウンサーをいじめないでください!」

というfaxが来たほどだった。それは今でもあの番組の笑い種となっている。

 

 それから小一時間ほど、文香は熱中してチョコレートを開封したり食べたりしていた。

浩輔は、文香が作った夕食を食べ、風呂に入り、ソファにだらりと横になってテレビを見ている。

 「まだやってんの」

 呆れてそう声をかけると、我に返ったように文香は背後の浩輔を振り返った。

 「ごめん、色んなチョコレートがあるから、もう興奮しちゃって」

 彼女がそう言い終わるか終わらないか、浩輔が腕を伸ばして彼女を引き寄せた。そして

そっと唇にキスをしようとして、「あ」と言った。

 「今日は口は駄目だ」

 「なぜ?」

 「チョコレートの味がするから」

 「じゃあ口以外にキスして」

 「当然。そのつもりだよ」

 

   

 

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