+++ 忘れまじフィジックスマン +++

 

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 私はそのプリントが回ってきたとき、迷わずその場で丸をつけた。「文系」に。

 「ちょっと吉永、家に帰って親と相談しなくていいの?」

 斜め後から、友人の恵が声を潜めて聞いてきた。前の教壇では担任の先生が、

用紙の記入方法を説明している。

 「親に相談したって一緒だから。私が理系で生きていけるわけないもん」

 「それもそうだね」

 「恵はどうする?」

 「うーん」

 彼女は顔をしかめて、プリントを持った両手をうんと前の方へ伸ばして考え込んだ。

 「私的には吉永と一緒の頭脳レベルだから、絶対文系のほうがいいと思うのよね」

 「一緒のレベル?」

 私は少し斜め後を睨む。

 「でもさ、親がこの高校入ったときから、理系に進め進めってうるさくてさ。受験に

有利だからって」

 「受験に有利ねえ」

 そこ、話聞いとるかあ、と先生の声が、私と恵の方へ飛んできた。はーい、と私たち

2人は首をすくめる。先生は間髪入れずに、そこも聞いとるかあ、と、今度は別の

おしゃべりしている部分に声を飛ばす。

 

 1年生の学期も、あと残り少なくなった。2年生になるとクラスは私立文系クラス、

国公立文系クラス、私立理系クラス、国公立理系クラス、の4つにクラス分けされる。

文系か理系か個人の希望を取り、その上でこの1年間の成績をもとにクラスを分ける

のだそうだ。

 「吉永、ハナは絶対理系だよ?同じクラスにはなれっこないと思うけど、それでも

いいの?」

 その日の放課後、私と恵が書道部の練習を終え、使った筆を水道水で流し洗って

いた時に、恵がこう聞いてきた。

 グイ、グイと力を込めて、流し場のステンレスに筆を押し付け、勢いよくその上から

水をかける。この毛筆というものの墨を吸う威力は驚きで、洗っても洗っても墨が

にじみ出てくる。これを完全に洗い落としておかないと、筆が悪くなるのだということを

顧問の国枝から口が酸っぱくなるほど言われている私たちは、ゴボゴボゴボゴボ・・・・・・

という音を響かせて横一列に並び、力を込めてグイグイと、やる。

 書をしたためるときとは違い、この時ばかりは脳と口は暇なので、私たちは半紙に

向かっていた緊張から解き放たれたこともあっておしゃべりに興じる。

 私は先ほどの恵の質問に答えた。

 「ハナでしょ?確かに、痛い。でもよく考えたら、今でも彼は進学クラスなんだから、

2年生になったら進学理系クラス。私はせいぜい普通文系クラス。いずれにしても

離れ離れになる運命なんだよね」

 「引き裂かれる運命なのね」

 大げさに、芝居じみた口調で恵が言うと、先輩たちが興味津々な顔をして自分たち

を見ていることに気がついた。

 「懐かしいなあ、クラス替えで好きな人と遠くのクラスになる・・・・・・っていうの」

 3年生の部長が呟いた。ふと、お堅いイメージの部長にもこんな思い出があったのか、

と親近感を覚えた。部長の隣で洗っていた副部長が、そうそうと同調して頷く。

 「うん懐かしい。私なんて、校舎まで変わったからね」

 「そんなことってあるんですか?」

 私と恵は愕然として副部長の顔を見た。うんうん、と、目は筆からそらさずに、その先輩は

言う。

 「一番バカクラスと、一番頭のいいクラスに離れ離れになってしまったら、校舎が真反対

だから。これは頭のいい人たちを安全な所へ隔離しておくという、学校の陰謀だと思うよ」

 はあ・・・・・・、と私は溜息をついた。

 ハナ、というのは、私が中学生の頃から片思いをしている花木君の、私と恵の間で交わされる

秘密の呼び名だ(と言ってもバレバレだとは思うけれど)。

 知的で、背が高くて、眼鏡が似合っていて、でもサッカーが得意で。とても競争率の高い

男の子だけど、私は心の隅でひっそりと片想いを続けた。

 最近はあまりに高嶺の花過ぎて少々あきらめが入っているけれど、それでも彼の存在が

あるのとないのとでは、学校に通う気合も全く違うと思うのだ。

 「高校ってところはさ、ある意味シビアよね。成績で、クラスも校舎も決まっちゃうんだから。

おまけに恋する気持ちまでも、成績に操られるよね。だって接点ないと、絶対片想いは不利

だもん」

 と、部長は続ける。この先ほどからの部長の力説に、私たち後輩部員は半分黙り込んで

しまった。 部長は恐らく実らぬ恋をしているらしい。

 部長の好きな人聞いていますか。部長は色んな大会で必ず入賞する素晴らしい毛筆の

才能の持ち主です・・・・・・、と訴えたい気持ちになりながら、私と恵は神妙に筆を洗った。

 

 告白すると、私は昔から、数学、理科が大嫌いだった。

  数字を目の前にすると一瞬にして頭がフリーズするというか、真っ白けになる。思考回路

が止まる、と言った方がいいかもしれない。これを私は「脳の拒否反応」と呼ぶ。

 逆に、趣味は読書、現国大好き、古文漢文最高にロマンティック、英語はちょっぴり

好き・・・・・・、結局のところ完全なる文系頭なのだ。

 ちなみに、家系の中に理系を生業とする人もいないところを考えると、これは立派な

遺伝、生まれつきの文系家系だと思う。だから、仕方ないんだ。私にはどうしようもないんだ。

 という逃げで、高校の1年間を突っ走ってきた。

 だから、2年生になって万が一理系クラスを選んだりした日には、一日の時間割ほとんどが

数学・物理・化学・・・・・・数学・物理・化学・・・・・・。こんなことは耐えられない、と、私が即答で

プリントの選択を「文系」にしたのはこういう背景があったのだ。

 

 ところが、人生甘くない。文系クラスに進んだ2年生。今現在。ちゃっかり時間割に

物理、化学がある。数学はある程度覚悟していたが、これには参った。

 「これって詐欺だ」

 と、私は物理の授業が始まったときに呟いた。やはり、卒業するまでこの2つからは

離れられないのだ。担任の先生の説明では、‘卒業するために必要な最低限の物理、

化学の授業数’だとのことだけれど、そんなものいらない!と叫びたくなる。

 今目の前の教壇では物理の柳田先生が、少し中年太りした身体を反らせてベクトル

の説明をしている。指で例の形を作って、私たち文系クラスに分かりやすいように

がんばっている。

 柳田先生の教え方は、意外と厳しくもなく、甘くもなく、淡々としていた。

 「多分、この子たちにはどう教えても物理なんて分からないだろうっていう前提

なんじゃない?」

 と、自転車で帰宅中に‘なぜ柳田先生はああも淡白な教え方をするのだろう?’と

恵と話したことがある。

 恵は、結局私と同じ文系を選び、そしてクラスも晴れてまた同じになった。

 「だってさ、ボールがどう落下しようがその理由なんか知りたくもないし、知るなんて

ナンセンスだって授業中に生徒からブーイングが出るようなクラスだよ。確かに私も

そう思うし」

 恵が天を仰ぎながら言う。私も激しく同意しながら、首を縦に振った。

 「言えてる。物体も動くときは動くのよ。どう力が働いたから動くなんて、理屈っぽい。

全てにおいてそうなのよね、物理って・・・・・・こう、想像力の欠如と言うか、白けるというか。

私にしたら全く意味のないことを学問にしちゃってるのよね」

 「吉永は文学少女だからね。私よりも文句がたくさんあるだろうね」

 そう、全てにおいて、‘こんなこと考えても意味ないじゃん’ってことばかり、物理は。

私の理系に対する苦手意識は、最大の敵、物理のおかげで大きくふれあがるのだった。

 

   

Background photo by MIYUKI PHOTO

 

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