+++ 忘れまじフィジックスマン +++

 

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 夏休み前の、暑い日だった。朝から直射日光が容赦なく降り注ぎ、クーラーなどない

教室は蒸し暑くて蒸し暑くて、私たちは下敷きをバタバタバタバタ振って涼をしのいで

いた。

 3時限目が始まる合図のチャイムが鳴っても、誰も気合など入れずにぼんやりしていた。

男子も女子も、とても無気力にどんより見えるのは、暑さのせいだけじゃなくこれから始まる

3時限目の科目が、物理だったからだろう。

 私は現実逃避するかのように、引き出しから部活で購読している書道の会報誌を取り

出して、パラパラとめくってみる。

 その時ガラ、と扉が開き入ってきた人物に、教室のみんなが一瞬どよめいた。

 太った中年の柳田先生ではなく、スラリと痩せた若い山野先生だったのだ。

 「ええ?どうして先生なんですか?」

 「柳田先生どうしたんですか?」

 男子たちが口々に質問しだす。スタスタ、と教壇に向かい、パタ、と出欠表と教科書を

置いた山野先生は、ちょっとニッと笑うと机に両手をついた。

 「僕で驚いたかな。実は柳田先生は、昨日から体調を崩して緊急入院をしてるんだ」

 またどよめきが起こる。みんな、もともと物理はムカつくし、柳田に対して特に何の感情も

持っていなかったはずなのに、一応心配そうに反応する。

 「柳田先生大丈夫なんすか。ちょっと太り気味だったから、それ?」

 ムードメーカーの男子が手を上げて言うと、失笑が広がった。山野先生は表情を変え

ずに私たちを見回して続けた。

 「僕も詳しくは聞いていないけれど・・・・・・たぶん、精密検査をするだけだから1週間か

2週間で退院されると思う。で、その間このクラスの物理は僕が担当します」

 ほえ、というような、ほお、というような文字にならない声があちこちで漏れた。

 「じゃあ、早速教科書を開いて。ええと、どこまで進んでいたのかな?」

 私はチラ、とクラスの皆を見た。もちろん私もだけれど、皆、多少緊張している。さっきとは

違って、気合が入ったような姿勢をしていた。

 それも無理はない。

 この山野先生は、進学クラスの物理の先生で私たちとは決して接点のない先生だったからだ。

それに、先生の教え方は非常にスパルタで、ついてこれない生徒は容赦なく切る、という噂を

私たちは恐ろしい思いで耳にしたことがあるからだ。

 

 「意外だったよね」

 昼休み、食堂で恵は肉うどんをすすりながら呟いた。この暑いのによくも汁物を食べることが

できるな、と私は恵を軽く盗み見ながら、自分は冷やし中華をすすった。そして返事をする。

 「うん、意外・・・・・・、山野先生でしょ?」

 「そう。だって」

 「優しいんだもん」

 私と恵は示し合わせたように声を同時発し、お互いを指差して笑った。

 「やっぱり?」

 「そう思うよね」

 「意外意外。世にも恐ろしいスパルタ物理教師、って思ってたのに、何だかゆっくりと

穏やかだったよね」

 私がそう言いながらハムの細切りを口に運ぶと、恵は肉のかたまりを大口を開けて

運んだ。

 「説明も柳田より数倍分かりやすかったしね。でもさ、やっぱりあれだろうか、柳田と

同じで、我ら私立文系クラスに難しいこと言ってもわかりっこないって思って、決めて

かかってるんだと思う?」

 私は少し考えて、食堂の入り口を意味もなく凝視した。思考は、山野先生の、問題を

全く解けない私たちへのいたわりや、分かりやすい教え方へとさかのぼっている。

 「・・・・・・、いや、多分違うと思う。あれは、心からの優しさだった。だって聞いた?問題集

の解答を求められた宮迫さんが、前の黒板で一文字も書けずに固まってしまってた時、

いいよ、分からないのはしょうがない、指名して悪かったね。席について。皆で考えよう。

って言ったのよ。素敵じゃない?」

 「吉永、一言一句漏れなく覚えてるのね」

 「なんだか・・・・・・憧れちゃった、山野先生」

 「まあ、外見も吉永の好みだもんね、知的・エリート・線が細い、おまけに眼鏡」

 私の意識は既に遠い世界へ飛んでしまっていた。今まで、全校集会でしか見かけたことが

なかった先生だけれど、急に身近に感じてしまったのだ。その時耳の遠くで恵が‘吉永、

ハナよ。ハナが食堂に入ってきたよ’と興奮げに呼びかけている声が聞こえたけれど、

私の心の興味はまったくハナに動かなかった。

 恵が大きなこえで‘はぁ。分かりやすい’と言っている声も聞こえた。

 

 柳田先生は思ったより検査が長いようで、一向に復帰の気配はない。

 山野先生が物理を教えに週3回このクラスに来るようになってから今日で3週間目。

だんだんと先生の本当の姿が見えてきた。

 

 あれ?少し変だ。

 

 例えば・・・・・・、普通に授業を進めていたかと思うと、どこでどうそういう脱線になったのか

急に何の脈絡のない世間話に突入する。変なところで妙に納得したり、笑ってみたりする。

 先日など、難しい内容の教科書の話を眉間に皺を寄せ聞いていた私たち生徒は、突然、

洗濯はお風呂の残り湯を必ず使うべし、残り湯が多少汚くても大丈夫、すすぎは水道水で

すればよいし、残り湯は温度が高いので汚れがよく落ちる・・・・・・という話に延々と付き合わ

されることになった。

 これには誰もが、まさに、きょとん、とした。

 それから、いつも着ている白衣がたまに裏返しになっていることがある。一番前の席の

女子に指摘されると、先生はいたって普通の顔でこう言った。

 「これ、合理的な方法だろ?午前中の時間にチョークでけっこう汚れたから、裏返して

使ってるだけだよ。白だからあまり気づかれないし」

 要するに、もしかして、先生は典型的な‘変な人’?

 見かけはどうであれ、やはり物理教師は物理教師。文系人間には到底理解できない

脳内構造をしているのだ、と、私は悟った。

 私と恵は、部活を終え筆を洗うたびに先生の奇行(私たちにはそう見える)について

あれやこれやと話し、おかげで先輩たちまですっかり山野先生のことには詳しくなっていた。

 

 ある日のこと、食堂で先生を見かけると、なんと先生は持参の大きなお弁当と、同時に

トンカツ定食を食べていた。私と恵は、遠くからコソコソと観察していたのだが、先生の周りに

座っていた理系クラスの男子たちが先に食事を終わり席を立ったのを見届けると、さささっと、

先生の前の席へ移動した。(この思い切りは恵が主導権を握った)

 「すごい量を食べるんですね」

 恵の驚きと半分呆れが入った声をものともせず、先生はケロっとした顔をして言う。

 「やあ、君たちは・・・・・・えっと3組の」

 「崎山と吉永です」

 「崎山さんと吉永さん。そんなにすごい量でもないよ」

 「そうですか?この学食の定食って、普通の2倍は量があるって有名なんですよ」

 「へえ、僕にはこれが普通だけど・・・・・・」 

 恵の突っ込みに先生は逆に驚きの顔をした。恵は更に、肝心な部分を指摘する。

 「先生、そしてその大きなお弁当。愛妻弁当ですか?」

 「これ?まあ、愛妻と言うか・・・・・・愚妻・・・・・・でもないな、まあそんなところ」

 やっぱり、結婚していたのだ。私は軽いショックを受ける。先生は眼鏡を押し上げて、

少し照れたような顔をした。

 「お子さんはいらっしゃるんですか?」

 恵が更に聞くと、先生は、まだいないよ、去年結婚したばかりなんだ、とまた照れながら

言う。

 へえ・・・・・・、と、私と恵は、先生の思いがけずの幸せオーラにこれ以上からかう余地も

なくちょっと黙り込んだ。

 と、先生は私たちが手元に持ったままでいた、先ほどまで食べていた売店で買ったカップ

アイス、「高原のミルクアイスクリーム・ビッグカップ」の空の容器にふと目をやると、おや、と

眼鏡を押し上げた。

 「それおいしいかい?」

 「はい?これですか?」

 今度は私がすっとんきょうな声を上げる。はあ、おいしいですよ、と答えると、ニコリと

笑い「デザートに後から食べよ」と呟いた。

 食堂を後にし、残り少ない昼休みの時間を私と恵は渡り廊下で過ごしていた。風が気持ち

いい。

 「先生結婚してたんだね」

 恵が先に口にする。私はぼんやりと風に吹かれながら、ショックよりも、何か爽やかな気分

の方が胸を支配していることに気がついていた。

 「吉永?」

 恵が心配そうに私を覗き込む。私は、恵が心配しているような感情にはなっていないことを

彼女に説明しなきゃ、と、少し心に渇を入れた。

 「大丈夫、全然平気。そんな予感していたんだ。なんだかね、逆に、今まで以上に‘素敵’

って思って」

 「え、どんなところが?大きな愛妻弁当とトンカツ定食を一緒に食べる人の、どこが?」

 少しおどけて恵が言う。私は声を立てて笑った。

 「なんかさ、私って年上好みでしょ。さらに、愛してる奥さんがいるとなると、またそれはそれで

大人の魅力でかっこいい、なんて思うのよね」

  「まあ、ね。分からないでもないよ」

 私たちはチャイムがなるまでしばらく、その場所で午後の風に吹かれていた。

 

 変人ぽいけれどやはり憧れの人、山野先生。その相手から、今まさに、きっと彼にとっては

考えられないほどの低い点数を取っているであろう小テストが自分に返されようとしている。

 「昨日柳田先生のお見舞いに行ったら、先生が入院する直前に君たちに行った小テスト

を返却していなかったことを聞かされて。先生もすっかり忘れていたとおっしゃっていた。

採点は先生がされてあったので、今から返しますね。名前を呼ばれたら取りに来て」

 あああ、とほぼ全員がイヤだなあという感情を声に出した。最悪な点数しか取れていないと

分かりきっているテストを返されることほど、なんだか無気力になることはない。

 私にとってはその返してくれる相手が山野先生なのだ。自分が本当に物理バカである、

ということを、おおっぴらに宣伝してしまったようなものである。

 はあ、と大きく溜息をついた。

 「斉藤君。あともう少しがんばれ」「茂山さん。惜しいよね、あと一歩」と、一人一人に声を

かけている。

 恵が呼ばれて「まだまだがんばれるよ」と言われていた。彼女が私の二つ後の席に

戻ってきたので、何点?と口だけで聞くと、左手で3、右手で9と示した。39点か。恵に

しては、赤点を逃れてよかったな、と思っていると、自分の名前が呼ばれた。

 「吉永さん」

 前へ行き、思い切って先生を見上げる。黒い髪の毛が眼鏡の上にかかり、その奥から

光る目が私を見た。

 「あともうちょっと。本気でやったらできるよ」

 席に戻り、がっくりと肩を落として手元のプリントを見る。29点。中間や期末テストの赤点

ラインは35点なので、まったくの駄目駄目ぶりである。

 

 中学生の頃は、自分がまさか高校生になってこんなに低い点数をとることになるなんて

夢にも思っていなかった。高校に入り理数系の科目は、ほとんどこんな点しか取れないこと

に、我ながら落ち込む。なんだか落後者みたいでとても後味が悪い。

 現国なら90点台、古典ならそれ以上取れるのに。きっと山野先生はそんなこと、知った

こっちゃないのだ、だってこのクラスの臨時の物理教師だから。

 どんよりとした空気を背負う私たちはほとんど無言で手元のプリントを見たり、ペンケース

の中身を整理してみたり、かばんの中を見てみたりしていた。

 さてと、と、山野先生が欠席者のテストプリントをトントン、と机でまとめ、教科書に挟んだ。

 白衣のポケットに両の手を入れて、2回、教壇の左と右を往復した。

 出た、奇行、と誰もが思う。皆が先生の次の行動を待っているのにこんなにも物思いに

耽った様子で教壇を行ったり来たりできるのは、この高校では山野先生しかいないだろう。

 「あのね、みんな点数がちょっと低めだから、落ち込んでいる人もいると思うけど、こう

考えたらどうだろう」

 そう言いながら教壇を降り窓際へ向かった。グランドを見下ろしながら続ける。

 「君たちが物理なんか全く分からないことは、先生よく分かるよ。なぜかというと、先生は

学生時代、国語が大の苦手だったから。全く分からなかったよ、どうして答えが一通りじゃない

のか、どうして回答者の感性いかんによって解答が多少左右されるのか。そんな曖昧な

教科、嫌いだよ、ってさ」

 私たちは小さく噴出した。クスクス、と笑う。その声に、先生も微笑んでこちらに向き直った。

 「だからはっきり言って、君たちにとってこの科目は拷問だろ。拷問だよねえ」

 またクスクスと笑いが広まった。私は先生の、まるで独り言のような呟きにも似た話に、

吸い込まれていった。

 「でも社会にはルールってものがあってさ。この高校にも、卒業するための、3年間学び

終えるためのルールがあるんだよね。その1つは、決められたテストで赤点を取らないこと。

それが皆が得意な文系科目であろうが、苦手な理数科目であろうが、関係なく赤点を取らない

こと。これは守るべきなんだよね、この高校に在籍する限りは」

 今度は誰も笑う人はいなかった。真剣に聞いている。ムードメーカーでいつも教師の話を

茶化す男子も、押し黙ったままだった。

 「君たちは、あともう少し吐き気を抑えて物理を勉強すれば、赤点を免れる。36点取れば

いいんだよ」

 先生はポケットに手を入れたまま、教壇に上がり下を向いたまま小刻みに頷いた。そして、

顔を上げて、確信を持った声でこう言った。

 「だから、あともう少しがんばればいいだんだ、あと数点だ」

 その言葉が終わるか終わらないかで終業のチャイムが鳴り響いた。隣のクラスの後のドアが、

チャイムと同時に勢いよく開き、3時限目が終わったこの中休みに食堂で早めの昼定食を

食べようと食堂へ突進する男子たちの地響きのような足音が聞こえる。

 けれど私たちクラスは、しん、としたままだった。

 「ええと、なんだか要領よくギリギリラインの点を取るようにって吹き込んだみたいで、柳田先生に

知られたらまずいかな」

 山野先生が頭を掻きながらそう照れたように言うと、やっと私たちの空気はほっと和み

またクスクス笑いが漏れる。

 

 先生はまだ頭を掻きながら、黒板の字を消し始めた。

 

    

Background photo by  Ruco*

 

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