+++ タブー ++++

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 コンコン。女が、所長室の中を伺う様にノックをしドアを開ける。

 ‘残業かい?’

 中にいた男が、くたびれきった顔で女に聞く。

 ‘ええ・・・・・・。あの、今日は本当に申し訳ありませんでした’

 ‘しょうがないさ。ベビーシッターと連絡がとれなければ、誰でもパニックになる’

 ‘でも無断で職場を飛び出したりして・・・・・・’

 ‘僕も、どなって悪かった。ここをいい営業所にしようと、ちょっと躍起になり過ぎた’

 ‘あの・・・・・・よかったらビールでも?’

  次の瞬間、画面が切り替わり、車の中で2人がもどかしげにキスを交わしている

展開が映った。

 

 「いやな予感がしたのよねぇ」

 理乃はそう呟いて、手に持っていた空のグラスをキッチンに持っていった。

 流しに置こうとして、思いなおして冷蔵庫からもう1本の缶ビールを取り出し、

リビングへ向かう。

 ブラウン管では、上司と車中で寝てしまった女性が髪や服をなおしながら、

一人息子が寝静まっている家へ帰る場面だった。

 夜中になにげなくケーブルテレビをつけると、一昔前の洋画チャンネルに目が止まった。

 そのままぼんやりと見ていた理乃だが、主人公のシングルマザーが働く職場に、新しい男の

上司がやってきてやけに2人の意見の対立が多くぶつかってばかりな展開に、これは

もしかして、と思い始めたばかりの時に、‘ビールでも?’。

 「ばかね。上司とくっつくと、ろくなことにならないんだから」

 今まで多少なりとも興味を持って見ていた映画の、ありがちな展開に急に興醒めした

理乃は、チャンネルを変えた。

 どこもおもしろくなさそうな番組。グラスにビールをついで、やはり先ほどの映画に戻した。

 どんなふうにろくでもないことになるのか、別の興味がわいたからだ。

 

 金曜日の午後11時43分。お風呂上りに着心地のいいカットソーの部屋着に身を

包み、寒すぎず暑すぎない快適な室内で1人ビール片手にあぐらをかく。

 「そんな」「やっぱり」「だから言ったのに」。画面に向かって野次を飛ばす、そんな自分を、

理乃は決して虚しいとは思わなかった。こんな時間が大好きだからだ。

 

 「それではこちらの会員証を、次回のレッスンのお時間からお持ちくださいませ。どうも

ありがとうございました」

 ハングル語講座へ新規申し込みをした初老の男性を、理乃はカウンターの外側に

回って見送った。男性の去る姿が廊下の中ほどを過ぎた頃、下げていた頭を挙げた。

 「財前さん、接客中にクリークの下田さんからお電話がありました」

 理乃の後輩である山下が、受付カウンターに戻ってくる理乃に声をかける。

 「ありがとう。クリークの?」

 なんだろう、先月分引き落とし依頼書の、不備かなにかだろうか。クリークからの

電話にはいつも煩雑な事務処理がついて回る。

 「私受付やってますから、どうぞ中で」

 もう1度アリガト、と山下に言って、理乃はカウンターの裏にある事務所に入った。

 自分の席につき、ちょっとぼんやりする。

 クリークに電話をかける前に、机に置いていたままのパックのジュースに口をつける。

 回りを見まわすと、目の前に総支配人の神田が眠そうな顔でパソコンに向かって

いる風景が目にとまった。その左には、支配人の古賀が講師と電話中だ。

 理乃の右斜め前には、会計主任の麻生が、相変わらず年齢を隠すための濃い

メイクに汗をにじませ、電卓を弾いている。

 

 ため息をつく。先週末に見た映画を思い出したからだ。

 全く、上司と恋愛関係になるなんてばかげている。何をどう考えても、自分にとって

不利になるのは分かりきっているではないか。

 例えば。万に1つもあるはずのないことだが、と理乃はあえて前置きをして自分の

パターンで考えてみる。目の前の神田。歳は50歳を過ぎたぐらい。薄くなった頭に

黒縁の眼鏡。巨体。そして、常に‘退屈そうな’オーラをかもし出す。

 彼と2人で、新幹線に乗って別の場所へ仕事をしに出かけることが月に2,3度

あるが、彼の外見がどうだとか何も気にならない。ただ、空気のようである。

 理乃が就職して5年、この上司とは一緒に仕事をしているのでお互いの欠点、

長所、最低限の私生活は薄々分かっているので、別の言い方をすれば長年

連れ添った夫婦のような、うらくたびれたそっけなさが理乃と神田には存在する。

 更に深くため息をついて、隣りの古賀を見る。歳は35歳。カルチャースクールに

は珍しい、若手の幹部だ。このカルチャースクールは大手Y新聞社の系列で、

彼はそのY新聞人事部から去年異動でやってきた。

 事実上、降格に等しい。どんな失敗をやったのか、理乃は想像できるような

しかしどうでもよいことなので想像したくないような気がしている。 

 身なりもよく、物腰柔かで人格的にもひどい人間ではない。ただ、やはり、

空気なのだ。セクシャルな魅力を、微塵も感じない。

 

 「Yカルチャースクールの、財前です。・・・・・・こちらこそ、お世話になっております。

下田さんから先ほどお電話をいただいていたようで。いらっしゃいますか?」

 下田が電話口に出るまで、繰り返される保留音を聞きながら理乃は会計の

麻生に目を一瞬止めた。

 「最後に・・・・・」と呟く。彼女のような噂好き、意地悪な性格の勤続25年OL

(いわゆるおツボネ)がいれば、社内恋愛、とくに上司との恋なんて、自殺行為に

等しいのだ。 エコヒイキと影で言われる。うらみねたみ、エトセトラ・・・・・・

 ゾッと、震えが来て、あわてて理乃は麻生の時代遅れのアイメイクから目をそらし、

電話機の点滅するボタンを無理矢理見つめた。

 

     

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