＋＋＋　　千両とコーヒーを　　＋＋＋

−１−

　隣家の子供が、とても早起きだ。

　しかも、私の考える‘朝’という常識を超えているので正直まいっている。

午前５時半には起きているのだ。午前5時半などという時間は、まだ私の中

では夜の範囲だったので、初めの頃窓を通して隣から聞こえてくる子供の声が、

夢の延長かと思ったほどだ。

　しかし、しばらくぼんやり頭だけを反らしてじっと暗い部屋の中耳を澄ませて

いると、その嬌声が夢ではなく現実だと分かってくる。

　私の部屋は、木造2階建ての2階部分、南向きの一室。隣りあわせで、母の

昔からの友人である小峰のおばさんが大家をしている家族向けコーポが

建っている。どうやら、その２階の２０３号室に住んでいる子供らしい、

この恐るべき早起きは。

　しかも、朝から元気がよく、1人で走り回ったり笑ったりしている。２０３号の

階下である１０３号が、今空き室だからいいようなものの･･････。

　と、いらぬ心配までしている自分がいる、こちらはいい迷惑をこうむっている

のに。

　何度二度寝を決め込もうと努めたか。しかし、完全に目が覚めてしまって、

私はおかげで毎日６時前には暖かく居心地のいいベッドから抜け出す羽目に

なっている。

　「お母さん、お隣の子供、朝が早過ぎやしない」

　金曜日の午前６時５分、私はぐったりとキッチンのダイニングテーブルの椅子に

腰を下ろしながら母に尋ねた。私に背を向けて味噌汁を作っていた母は、

ふん？と私の言葉に考えるように上を向き、ああ、と思い出して私を肩越しに

見ながら言った。

　「小峰さんのアパートの子でしょ。この前そのママに会ったのよ。言ってたわねえ、

最近家族で早寝早起きを実行しているので、朝ご迷惑だったらすみませんって」

　「お母さんなぜそれを私に早く言わないの」

　それでなくても低血圧の私は、ムスっとして母に言う。味噌を鍋に溶き入れて、

母はクルリと私のほうを向いた。

　「あなたが最近妙に朝早く起きてくるのは、そのせいなの？そうよね、あなたの

部屋はそのお宅と隣合わせよね、そう言えば」

　私はまだムスっとしたまま、自分で入れたコーヒーをすすった。

　「まあ、いいことじゃない、早起きは。会社にも遅刻しないですむでしょ」

　そう、平日ならば、私も‘目覚まし代わり’と割り切ることができる。確かに、おかげで

今まで始業時間にギリギリ間に合う計算でロッカールームに飛び込んでいた私だが、

電車３本分も早く会社についている。（家でダラダラしていてもしょうがない、と早めに

出発しているのだ）

　けれど、週末まで起こされてはたまらない。今日も、せっかくの日曜日、お昼まで

寝るぞと意気込んで昨晩午前２時までお気に入りのＤＶＤを見ていた。

　そして、きゃあきゃあと遊ぶ声で目が覚めて、時計を見ると午前５時４５分。

　やられた･･････。私はため息をついて、頭を抱えた。やはり、二度寝しようとしても、

もう私の体がこの時間に起きるようにリズムができあがってしまっているのか、

眠ることができない。

　「恨むよ、隣家の子･･････」

　そう呟いて、私は起き上がり服を着替え始めた。階下に下りても、さすがに日曜日は

母も父も弟もまだ眠っている。そっと音をたてないように顔を洗い、濃い目のコーヒーを

入れてリビングの大きなクッションに座った。

　「あら、こんな朝からどこか出かけるの」

　母が寝ぼけ眼でキッチンに姿を現したのが、午前６時５０分。私は既に、コートを

羽織って手袋をはめているところだった。

　「ちょっと、駅前ぐらいまで散歩してみる」

　「そう？朝ごはん、帰ってきてから食べる？」

　「軽いものでも食べてくるから、私のはいいよ」

　分かった、と眠たい顔のまま冷蔵庫を開け麦茶を取り出している。たまには早い日曜日も

いいんじゃない･･････、と、節をつけ私に聞こえるように口ずさみながら。

　我が家から徒歩で１５分ほどで、小さなＪＲの駅に着く。私は毎日、ここから電車に

乗って出勤している。そして、この小さな町の唯一の、ちょっとした繁華街でもある

この通りに、コーヒーとドーナツを提供してくれるチェーン店があり、ここは朝７時から

開店してることを私は知っていた。そこを目指そう。

　人通りの少ない歩道を歩き、冬の朝の清い空気を肺がいっぱいになるほど

吸い込んだ。日曜日ということもあり、車も今朝は少ない。

　そのとき、目前から見覚えのある男性が歩いてくることに気が付いた。

　それは、‘噂の建築士’だった。

　まさか、と私は目を疑ったけれど、本物だ。一瞬歩みが止まる。