+++  千両とコーヒーを  +++

 

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 ‘噂の建築士’とは冷静に考えるとなんとも垢抜けないネーミングだけれど、

なにせ名付けたのが50歳代も半ばの河東専務なので、仕方がない。始め

こそは、「そんなダサイ呼び方やめてください」と女子社員ほぼ全員からの

ブーイングを浴びていたが、いつしか定着して今では皆が彼のことをそう呼ぶ

ようになった。

 私の勤める会社は、テナントビルの5階にオフィスがある。そして、お隣の

ビルの5階が道路を隔ててすぐ同じ高さに位置しているので、案外にお互いの

オフィス同士が丸見え、ということになるのだが、今年の3月、そのオフィスに

新顔が入った。彼を一目見た私たち女子社員は、すぐに彼の魅力のファンとなり、

毎日向こうは見てもいないのに‘今チラと窓の外を見たわよ’などと、女子高生の

ような会話を交わしてきた。

 男性社員たちは呆れたを通り越して憤慨しているようだったが、先ほどの

河東専務が持ち前の情報収集能力を駆使し、こう私たちに教えてくれた。

 彼は、父親が設立した建築設計事務所(すなわち、お隣の5階オフィス)に、

今年の春入社した。彼自身は、大学の建築科を卒業した後、2,3年ほど

海外に留学し建築技術を学んだそうだ。ちなみに独身。

 ‘専務、ありがとうございます!’私たちは専務に心から礼を言ったものだ。

このときだけ、専務の株は急上昇した。

 「いったいどこからの情報なんですか」

 彼に一番熱を上げている甲斐主任がほとんど涙目で喜びながらそう尋ねると、

専務はケロリとこう述べた。

 「いやね、この下の田原食堂で、当の本人に出くわしたんで、メシを奢ってやり

ついでに色々聞き出したのよ。彼はなかなかの好青年だよ」

 

 その‘噂の建築士’が、なんと私の前から颯爽と歩いてやってくる。だんだんと

冬の朝日が差してくる中、私には、彼の後ろからその眩しい光が差してくるように

思えた。朝靄の中をかき分け光と共に現れた人。ロマンス小説風に言うと、そんな

感じだ。

 両手いっぱいに、書類の入った封筒や設計図、重そうな鞄を持ち彼は近づいて

来る。日曜日というのに仕事らしい。これから駅に向かうのだろうか。

 ということは、私と同じこの町に住んでいるのか?

 もう私は頭の中がいっぱいで、色々な思いに押しつぶされそうだった。そして、

後もう少しですれ違う、という時になって、現実問題に直面した。

 彼は、私のことなど知る由もない。

 従って、私が声をかける理由など、1つもないのだ。

 頭ではそう分かっていても、私の身体は勝手に動いた。おはようございます、

と心の中で呟いて、すれ違いざま軽く頭を下げた。

 彼は、やはり、‘誰だろう?’という不思議そうな顔をしたが私につられて‘どうも’

と頭を下げた。そのとき同時に、足早に急いでいた彼が立ち止まって私の顔をじっと

見たので、私は爆発しそうなほどの羞恥心に襲われ、気が付くと走って逃げて

しまっていた。

 

 何故逃げてしまったのか。私は目の前のアイスコーヒーと2個のドーナツを睨み

ながら後悔していた。普段なら、好きな組み合わせなのでペロリとたいらげているところ

だが、今日はとても、口に運ぶ気にならない。どうしても、先ほどの自分の失態を

思い出すとため息ばかりが出てくるのだ。

 店内は暖かく、人もまばらだが段々と増え始めた。皆、休日を楽しく過ごそうと

生き生きとした顔をしている。その中にあって、私は1人、きっと蒼ざめた顔で

陰気臭く見えるに違いない。また、ため息をついた。

 それにしても、彼はやはり素敵だった。ふんわりと優しさをかもし出しつつ、鋭い知性をも

感じさせるあの雰囲気。

 どんな声をしているのだろう。どんな食べ物が好きなのだろう。どんな映画を見るのだろう。

趣味は何だろう。

 何も知らない。

 私は、再びため息をついた。

 

  

 

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