<<< 喫茶店 毬藻 >>>
-適材適所・2-
自分から話題を振っておいて、優妃は言葉に詰まった。ふと、他の人はどうなんだろう、と気になっただけ
だったから、改めて自分のことを聞かれると・・・・・・。急に神妙になった優妃を、毬藻は目をそらさずに見守
った。コーヒーの湯気が、2人の間をゆらゆらと立ち上る。
「私は・・・・・・恋に落ちた時、銃で撃ちぬかれたんですよ」
「銃で・・・・・・」
恐らく毬藻にとっては、意外な答えだったのだろう、ハッとしたような顔をして、口を閉じた。
「そうなの」
毬藻は窓の外の雨をじっと見ながら、ある人影が入口の方へ向かっているのに気付き、それを目で追った。
そして、目で追いながら、こうつぶやいた。
「撃たれたぐらいだから、きっと相手の気持ちは優妃ちゃん以上に強いんだわ」
毬藻店長がそう言い終わらないうちに、ドアが開いた。
「いらっしゃいませ」
優妃がそう言ってカウンターから振り向くと、濡れた傘を手に持った赤野が立っていた。
「赤野さん、いらっしゃい」
毬藻がそう声を出すまで、じっと赤野と優妃は一言も口を利かずにその場に突っ立っていた。
毬藻の言葉に我に返ったような2人は、急にぎこちなく身体を動かした。
奥の席に案内すると、赤野は来ていた黒のウィンドブレーカーを脱ぎ、隣りの席の背にかけた。そして、少し
濡れた髪をかきあげた。
前の席に座った優妃は、じっと、その赤野の動作を見ていた。黒いハイネックのシャツに見覚えがある。確か、
初めて新渚社で会った時に着ていなかっただろうか。
赤野は、まるで嵐の中から一軒の暖かい避難所を見つけたような、そんなホっとした表情をしていた。
「雨がすごいですね」
優妃が声をかけると、赤野は椅子の背にゆったりと身体をあずけて足を組んだ。
「すごいね」
「今日はお仕事は・・・・・・」
「地下鉄で移動中なんだ。次ぎの約束まで時間があいたから、顔を見に。」
いたずらっぽく言って、優妃の目を見た。優妃は、曖昧な微笑をしてうつむいた。
毬藻がコーヒーを持ってきてきた。そして、2人きりにするためにすぐ去っていった。
「・・・・・・というのもあるけれど、昨日のお礼に来たんだ。昨日はありがとう。まさかあなたが来てくれるとは思わな
かったから、驚いて。スタッフの1人が、‘写真の女の人が来ています’なんて俺に言いに来た時は、びっくりした」
まさかあなたが。その言葉は、優妃の胸にグサリときた。今まで赤野にどういう態度をとってきたか、その事実を
突きつけられたような気がして、穴があったら入りたくなった。
「そうですか。最終日ギリギリで申し訳なかったですけど。赤野さんのお写真、興味あったんで、出かけました」
「ありがとう」
「すごく、いい写真・・・・・・って言うと生意気ですけど、無機質じゃない人間味のある写真でした、風景も全て」
「そんなこと言われたの、初めてかもしれないな」
赤野は少し照れたような顔をして、持っていた大きなバッグを探った。恐らく、カメラも入っているのだろう。
「これ、あさってぐらいから記帳してくれた来場者に送る礼状なんだけど、あなたには手渡すよ」
赤野が取り出した封筒を、優妃は受け取り、中を見た。
お礼の言葉が印刷された手紙と、赤野の写真がポストカードになったものが1枚入っていた。
会場の入口にピンでとめられてあった、近未来のような都市風景のモノクロ写真。
「ありがとうございます。これ・・・・・・どこを撮ったものなんですか?」
「これはね、上海」
「上海。私は、海外には1度も行った事がないんです」
「世界は、広いよ。日本にいると、分からないけれど、海外に出ると本当にそう思う。自分の小ささを確認する
ためにも、たまに外国で写真を撮りたくなるんだ」
「私・・・・・・、イギリスの田舎に行ってみたい」
ふと微笑んで、赤野がうなずいた。優妃も、緊張がほぐれてきて(以前の緊張とは違う種類の緊張だった)、反対
に今目の前にいる赤野が好きだという気持ちが逆流したように身体を襲ってきて、せつなくなった。
窓の外へ目をやった赤野は、傘を指しながら行き交う人々を眺めている。そして、次ぎにこうつぶやいた。
「あなたを外国に連れて行きたい」
そして今度ははっきりと優妃の方へ顔を向けて、優妃の目から鼻筋、口元、首筋に目線を移動させ、なぜか
悔しそうな顔で言った。
「あなたの笑った顔を、もっと見たい」
優妃は、目の前がまたグラリと揺れた。息ができないほどの媚薬を飲まされたような、そんな陶酔を感じた。
私は、もしかして愛されているのかもしれない。この、目の前に座っている男から、私が思う以上に愛されている
のかもしれない。
そんな確信が、優妃を貫いた。優妃は、ゆっくりと唇を開き、せつなく苦しそうな表情をした。
優妃のその顔を見て、赤野の方もひどく衝撃を受けた。思ってもいなかった、優妃のその‘ある’表情。
おぼろげながら、‘彼女がそんな表情を自分に向けることは夢だ’と思っていた彼は、今目の前の優妃を
信じられない思いで凝視した。まさか。まさかだった。
赤野は、男として鈍感な方ではなかった。今の表情が、何を意味するのか・・・・・・
優妃の、自分に対するどんな想いを意味するのか・・・・・・
彼は半信半疑のまま、しかしそれらの意味を一瞬にして悟った。
そして、我を忘れた。
ここが喫茶店の中だとか、毬藻がいることだとか、いっさい、彼は忘れ去った。
手を伸ばして、優妃のあごを軽くつかんだ。顔を上げさせる。
身体をかがめ、赤野はテーブルの上に身を乗り出した。そして、片方の手は優妃の肩をグイと引き寄せた。
しかし、動かし始めた身体を、赤野はふと止めた。優妃も、赤野の目を凝視したまま動かない。
ぎこちなく、肩の手を離し、あごをつかんだ手を離し、赤野はゆっくりと椅子に座った。
そして彼は一言、「ごめん」と小さく呟いた。
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