<<< 喫茶店 毬藻 >>>

-適材適所・1-

 

 「じゃあ帰ります」

 「気をつけて」

 優妃は個展会場の入口で、赤野を見上げて立った。この後個展を手伝ってくれた友人たちと打ち上げを

するので、よかったら来ませんか。そう赤野は優妃を誘ったが、彼女は断った。

 ー今の自分の顔を、あまり他人には見られたくない。きっと、すごく情けない顔をしているからー

 恋に落ちた人間が、しかもそれに気付かずにずっと相手も気持ちも無下にあつかってきた人間が見せる、

戸惑いの顔。その顔に違いないと思った優妃は、とにかく早くこの場を去りたかった。

 何よりも、赤野の前から消えたかった。

 

 階段を降りながら、優妃は赤野がじっと自分が去った後を見ているような気がしてならなかった。

 外へ出ると、今まで以上に土砂降りの雨。傘もきかないほどの大粒の雨は、冬の到来を告げるように優妃の

身体をいっそう震えさせた。

 「雨がひどいから、大丈夫かな」

 出口に向かう優妃の背後でそうつぶやく赤野を、優妃は思い出す。背の高い、一見冷たい雰囲気。相手を

見透かすような、澄んだ茶色の目をいきいきと動かす人。言葉少ない中でも、優妃のことを特別に扱う、壊れ物

のように扱うその不器用だけれど優しい態度。整った顔から、時折覗かせる熱のこもった表情。

 何より、写真への情熱、仕事への情熱。

 

 その時、優妃の頬に、涙が一筋流れてきた。そして後から後から流れるその涙は、そのうち雨と一緒になって

優妃の顔を濡らした。

 あれだけ赤野の前から去りたいと思っていたほんの5分前なのに、今こんなにも赤野の側にいたいなんて。

こんなにも、一緒にいたいなんて。

 文字通り、優妃は胸がきつく締めつけられるような苦しみを感じた。

 恋に落ちた、恋に撃たれた瞬間の、想像を絶する感情の吐露に、優妃は押し流されて漂ってしまいそうに

なっていた。

 同時に・・・・・・人を愛することの奇妙な快感を、感じてもいた。

 

 「優妃ちゃん、お昼、今日は私のおごりでいいから。ゆっくり食べて」

 次ぎの日も、雨だった。激しく降る雨の中、喫茶店毬藻も客足が鈍り、今日は朝一番の才田を含めまだ5人しか

来ていない。

 毬藻店長が、優妃にランチを作ってくれている。1度は断ったが、気にするなと言ってくれている店長の言葉に

甘えて、優妃はカウンターに座った。

 「はい、どうぞ」

 「わあ、すみません」

 今日のパスタランチは、辛子明太子とほうれん草のパスタ。優妃は喜んで、フォークを握った。

 「優妃ちゃん、博多でしょ。博多といえば、明太子かな、と思ってね。お水?ジュース?」

 「ありがとうございます、水でいいです。自分でいれます」

 「いいのよ。座ってて」

 多分、優妃の昨日からの様子を見て、毬藻店長は元気づけようとしてくれているのだろう。今日のランチのメニュー

も、優妃のことを考えて決めたに違いない。その優しさが痛いほど分かって、優妃は本当に毬藻に感謝した。

 食後のコーヒーを口に運ぶ。外は、相変わらずひどい雨だ。優妃も毬藻も、コーヒーを飲みながらぼんやりと窓の

外を見ていた。優妃はふと、毬藻に聞いてみたくなって口を開く。

 「毬藻店長・・・・・・、恋に落ちた時って、どんな感じがしました?」

 「突然どうしたの」

 店長は目をわざと丸くして、苦笑いした。

 「あのですね・・・・・・、過去、‘あ、恋に落ちた’と思った時、どんな感覚でした?」

 そうねえ。と毬藻は考え込んでいる。しばらくその横顔を見ていて、優妃は今毬藻の頭の中に桜木仁の顔が

浮かんでいるかもしれないな、ちょっと酷な質問をしてしまったかな、と後悔した。

 けれど毬藻は子供のように目を輝かして、思い出した、という表情をした。

 「そうそう!仁とは、私の一目惚れから始まったんだけど、彼を最初に見たとき頭の中で鐘が鳴ったのよね」

 「鐘!」

 「そう、チャペルかなんかでよく鳴ってるじゃない、カーンカーンって。あんな鐘が鳴り響いたのを覚えてる」

 「それが、恋に落ちた瞬間だったんですね」

 「うん。頭の中で鐘がカーンって鳴って、それが始まり」

 2人は顔を見合わせて大笑いした。鐘がなった!なんとおもしろい表現だろうと、優妃は思った。でも、分からなく

はない。確かに、そんな瞬間でもあるのだろう。

 「あとね、芽衣はよく恋に落ちるんだけど、」

 「芽衣さんらしい」

 「うふふふ・・・・・・そうなのよ。で、彼女がこの前こんなことを言ってたな。彼を好きだとなと思った瞬間、血圧計

が下80から一気に1,000まで上がった感じよーって」

 「一気に1,000!」

 ここでも2人は大笑いした。芽衣らしい表現だ。

 「ああ、おかしいですね。人それぞれなんですね、その瞬間の表現って」

 「で、優妃ちゃんは?」

 

      

 

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