<<< 喫茶店 毬藻 >>>

-適材適所・4-

 

 12月に入った。寒さが深まったある晩、優妃は部屋でテレビも音楽もかけずにじっと座っていた。

 電話の前で、1時間も迷っている。

 今から、2つのことを‘片付け’なければならない。

 心臓の鼓動が、早い。まだ暖房をつけていない部屋の中は寒いのだけれど、優妃は身体がほてって

いた。緊張のため、汗が額に浮かぶ。

 その時、カナの言葉が胸をよぎった。

 「人間には、適材適所がある」

 よし。優妃は声に出し、受話器をとった。

 

 「おお、よくきたな恩田」

 「監督、お久しぶりです」

 優妃は母校の大学を訪ねた。陸上部の監督室は、体育館の中にある。陸上が全国的にも有名な大学

だけあって、陸上部は独立した形になって設備もいいものが揃っている。

 優妃が選手時代に監督だった丸崎は、当時より少し白髪が増えた程度でほとんど変わっていない。

 スポーツ医学が専門でもある丸崎は、大学から特別に招かれている。今年の春から本格的に、この

陸上部を率いることになっているが、年末から準備に出てきているらしかった。

 「今日は仕事はないのか?」

 「はい、店休日なので。先生も、もうすでにお一人でやってらっしゃるんですか?」

 「そうなんだよ、春からとはなってるけど、実質学生の練習も見てるしな」

 ストーブに火が入り、監督室は温かかった。壁面の書架にはずらりとスポーツ医学の本が並び、コンピュー

ターも3台あり、最先端のデータがそろえられるようだった。その中で、昔かたぎの丸崎がジャージの上下

で座っているのが、なんとも不釣合いで思わず優妃は笑った。

 「監督、まさか、その機械監督があつかってるわけじゃ、ないですよね」

 「まさかってなんだ。まあ確かに、俺はあつかえねえな」

 優妃はふふふ、と笑った。助手の女性が2人、常勤しているらしい。今はお昼休みで外へ出ているらしい。

 「まあ座れや」

 優妃は座って、電話での話しを切り出した。コーチの仕事について、もっと詳しく聞かせてください、そう

あの晩優妃は丸崎に言ったのだ。

 ひととおり説明して、丸崎は帰ってきた助手の女性が入れてくれたお茶を口に運んだ。

 「まあな、俺も色々考えたんだが、この陸上部を立てなおすためにもな。お前の力が、いると思うんだ」

 優妃は黙って両手で包んだ湯のみをじっと見た。

 「お前は、俺が見て来た中でも技術も精神力も飛びぬけた選手だった。まあ、あの事故のこともあったけど、

今でもお前の中でそのセンスは失われていないと、思っとるからな、俺は」

 優妃は、小さく頷いた。 

 「まあでも、嬉しいよ。お前が話しでも聞いてくれる気になったことがな。頑なだったからな、前は」

 その監督の言葉に、優妃はあの時レストランで、走る優妃のことを目を輝かせてしゃべっていた赤野を思い

出した。

 自分を見ていてくれた人がいる。その安堵感は、やはり後々考えると優妃への後押しになっている。

 胸の中で、小さく赤野への感謝の言葉を呟いた。

 

 大学からの帰りがけ、昔よく通学で通った並木道を歩いた。木から落ちた葉が、風で転がっている。

 ここを、よく雅也と歩いたものだった。

 優妃はあの晩の、2つ目の電話を思い返した。

 「雅也と一緒に九州に帰る気はないから・・・・・・」

 きっぱりと、言った。きっぱりと言わないと、ここは駄目なような気がしたからだった。

 一瞬言葉につまった雅也は、喉を鳴らして唾を飲みこんだようだった。優妃は黙って、彼からの言葉を待った。

 「そうだな。あんなこと言って、悪かった」

 優しい声が帰ってきた。優妃は、胸を撫で下ろした。彼への気持ちは、もう懐かしい思い出でしかない。

 それは、動かしようのない事実だった。

 「優妃、元気で」

 電話を切り際に、雅也が言った。慎重に、言葉を選ぶような口調だった。けれど、幼い頃に聞いた、妹をいたわる

ような雅也の口調そのままだった。

 「うん。雅也もね」

 受話器を置いた。優妃の今までの人生の半分近くをしめていた雅也との思い出を、立ち切った。

 

 「では3月号の特集は、この案で行こう」

 編集長の山崎が人一倍元気のいい声で言ったその言葉で、今日の長い編集会議が終った。

 誰もがホッとした顔をして背筋を伸ばしたりコーヒーをすすったりしている中、赤野は椅子に深く背も垂れて、両手を

頭の後ろで組んで天上を見ていた。

 先日(といっても、もうだいぶん前になるが)優妃の顎をつかんだ手の感触を思い出していた。

 あの時、彼女の目は熱を帯びて、自分への感情が迸っていた。長いまつげが、自分の心を開かせるように1回瞬き

した。

 赤野は、手のひらを見つめた。優妃の顎の感触を思い出す。ひやりと冷たいが、柔らかい肌だった。

 彼は目を閉じた。なぜあの時、彼女の口に自分の口を重ねなかったのか?

 何度も繰り返した、自分への問い。

 答えは出ていた。怖かったのだ。

 まさか自分のものになるはずはないと思っていた彼女が、目の前で自分の物になろうとしていた。‘触れてはいけない

ものなのではないか?’そんな気持ちが、赤野の身体を貫いた。

 畏れ、かもしれない。憧れへの畏敬。あまりに突然畏敬の対象が手に入りそうになったとき、男は皆どういう態度に出る

のだろうか?男に限らず、女も。

 深いため息をついて、赤野は立ちあがった。同僚の飲み仲間が誘ってきたが、今日は疲れたよ、と断った。

 

 分かっている。だた、俺は臆病なだけなんだ。手に入りそうになったものを逃す、バカな男なだけなんだ。

 赤野の人生で、自分をこれほど臆病だと感じたことは、今が初めてだった。

 

       

 

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送