<<< 喫茶店 毬藻 >>>

 -再生・3-

 

 赤野の職場に優妃から電話がかかってきたのは、それから2週間近くたった頃だった。

赤野の言葉通り彼は多忙を極め、夜も午前2時や3時の帰宅の日が続き、優妃とはあれ以来

1度も会えていなかった。

 「今、いいんですか?」

 久しぶりに聞く優妃の声に、赤野は椅子に深く背もたれ目を閉じた。もう夜の9時を過ぎている。

 「いいよ。久しぶりだね」

 「ええ、本当に。」

 受話器を握り締める優妃は、薄明かりの中で自分に微笑みかける赤野の顔を思い浮かべ

胸が締めつけられるように苦しくなった。

 「赤野さんに報告があるんです」

 優妃は再度受話器を握り締めた。

 「大学の陸上部の話を、受けようと思ってます」

 そうか。と、赤野が言った。しばらく何か考えるかのように無言だった彼は、安堵のため息をついた。

 「それがいい。あなたは、そうするのが一番いいんだ」

 赤野の脳裏に、優妃をただひたすら追いかけていた新人の頃の自分が浮かび、新鮮な気持ちになった。

 「桜木さんには言ったの」

 「いえ・・・・・・でも、2月から来て欲しいって先生は言ってるから、もう明日には言わないと、と思って」

 「そうだな。もう1月も終る」

 しばらく2人は言葉を詰まらせるように無言だった。そして、ひそかな優妃のささやき声が聞こえてきた。

 「会いたいです」

 「会いたいな」

 電話を切って、赤野は左手を左のこめかみに持っていき、ぼんやりとしていた。

 おかしなものだ、人間は、と思う。ついこの前まで、手に届くはずがないと思っていたことが手に入ると、

もう次の欲求を満たそうとする。本当は、愛し合えただけで、それだけで奇跡に近いことなのに、今の

自分はもっと、もっとと思っている。毎日会いたい、毎日唇を奪いたい、毎日腕の中で踊らせたい。

 いつまでもぼんやりと受話器を見つめている赤野を、先ほどの電話の会話も聞こえていた女性社員

たちはもはや絶望の思いで眺めていた。

 

 今月限りで辞める優妃のために、1月の最後の日曜日に、喫茶店毬藻にいつものメンバーが集まった。

毬藻店長はもちろん、いっくん、芽衣、才田、富樫。それぞれ騒いで、時間はあっという間に過ぎる。

 「あの・・・・・・。本当に今までお世話になりました」

 夜9時を過ぎ、そろそろお開きにしようという時、優妃は立ちあがって見なれた顔ぶれを前にした。

 「ここでは、たくさんのことを学ばせてもらいました。店長の人を気遣う心、芽衣さんのバイタリティ、才田

さんの職人魂、富樫くんの勤勉さ、いっくんの前向きさ。私、ほんとに感謝してます」

 今目の前にいる人々。毎日会って毎日笑って過ごしていたのに、もうそれもできなくなる。新しいことに

チャレンジする期待はあるけれども、やはりこの場所から離れることの寂寥感を感じて、優妃は思わず

涙が込み上げた。

 「優妃ちゃん、礼を言うのはこちらのほう。あなたが一生懸命働いてくれたこと、私忘れない。あなたが

いつも笑顔で、ここにいる常連さんはもちろん来るお客さん全てを明るくしてくれたこと、私忘れない。

本当にありがとう」

 毬藻が、目に涙を浮かべて優妃におじぎをした。優妃は、流れてくる涙をぬぐうことも忘れて、ただ

頭を下げた。

 「そうそう、優妃ちゃんはここに来ないと、素敵な人に出会えなかったんだからねー」

 芽衣の大きな声が響いて、ドっと笑いが起こる。優妃は泣き笑いのような顔をして、それでも笑った。

 「でもさ、優妃ちゃん海外でも行くの?って感じだよ、店長。会おうと思えば会えるんだから!」

 才田がおどけて言う。本当ですよ、髪も切りに来てくれるんでしょ?と、富樫が言う。

 するといっくんが駆け寄ってきて、優妃のスカートの裾をひっぱった。そして無邪気な笑顔で、こう言った。

 「おねえちゃん、きっと、幸せになるんだよ。おねえちゃんは、幸せにならないといけないんだよ」

 優妃はそのいっくんの言葉を、何度も何度も胸に繰り返して泣いた。

 

     

  

 

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