<<< 喫茶店 毬藻 >>>

 -再生・2-

 

 今まで、優妃は自分という人間を偽って生きてきたのかもしれない。肩肘張って、常に気を抜く

ことがなかったのかもしれない。その習慣は、彼女に‘それが自分だ’という思い込みを擦り込んで

いた。人が生きていく上で、そんなにまでも肩肘張る必要はない、という事実を、彼女は今まで

知らずに生きてきた。

 けれど、赤野と過ごした週末で、それはもろくも崩れ去った。いや、崩れ去るべきものが、やっと

崩れ去った。

 何度も、何度も、それこそ数え切れないほど体を結びつけた。2人とも、自分のしていることが分か

らなくなるほど夢中だった、お互いに。

 幾度となく、自分の殻がはがれたその幸福感に、優妃は涙した。そしてその度に、赤野は優しく

優妃の目にキスをした。

 

 土、日とも、優妃は仕事があった。朝赤野が喫茶店まで送り、帰りも迎えに来る。優妃が働いてい

る何時間だけ離れて、あとは全て、優妃は赤野いわく彼のマンションに軟禁されいてた。

 「昼間、何をしていたの?」

 しばらくぼんやりと上と向いていた優妃は、ふとそう切り出した。隣りでは、赤野もじっと上を見ていた。

 「仕事してたよ。日曜日なのに」

 「会社に行ったの?」

 「いや、来週からの企画会議に使う資料のために、ある画廊のオーナー話を聞いていた」

 コチコチ、と時計の音が響くだけの部屋は、つい先ほどまで愛し合っていた二人がいた証拠

に、熱がこもって膨張しているようだった。

 「冬なのに・・・・・・暑いね、赤野さん」

 優妃のその言葉に、赤野は笑って起き上がった。カーテンを引き、窓を少し開ける。

 窓からは、闇のような冬の夜が見えた。もう時間は、深夜の12時だった。

 「眠たい?」

 服を着て窓辺に立っていた赤野は、振り向いて優妃に尋ねた。優妃は首を振る。そう、と赤野は

笑って、隣りの部屋へ行きすぐ戻ってきた。手には、重たそうな箱を抱えている。

 ベッドに腰掛け、赤野はそれを優妃に渡した。優妃は体を起こし、ブラウスをはおる。

 箱を開けると、たくさんの引き伸ばした写真が入っていた。月間「ATHLETE」も何冊か入っている。

 「これ・・・・・・」

 優妃が一枚を手に持って凝視している側で、赤野は優妃の長い髪に指を絡ませた。

 「これ、全部私?」

 「そう。あなたの特集号もある。俺が撮ったあなたの写真の全てだ」

 「すごい・・・・・・」

 優妃はその数に驚いて、ただ声をなくしていた。競技会でスタート前の自分。スタートした瞬間の自分。

トラックを回る自分。大学で練習している自分。笑っている自分。険しい顔をしている自分。後姿の自分。

 「すごいだろ?そのころの俺は、マジで恩田フリークだったからね。恩田選手のことは赤野に聞けって

編集者からも言われてた」

 そう話しながらも優妃の髪を弄ぶ赤野を、優妃は見上げた。優妃から、顔を近づけてくちづけをした。

 「その恩田と今こうなって、どんな気分なの」

 優妃からのくちづけを受け、目を閉じながらじっと考え込むような顔をする。

 「隠すつもりはないから言うけど、何人か俺だって女性と付き合った。その間、恩田選手のことは・・・・・・」

 「忘れてたんでしょう」

 「いや、忘れてたとか恋焦がれてたとか、そういう言葉ではないんだ。もちろん、俺の記憶の一番深い部分

にあなたはいた。けれど、まさかまた出会ってこんな関係になるなんて、夢のまた夢、というより夢そのもの

だと思っていたから・・・・・・」

 ふと優妃は寂しい顔をした。自分の存在を夢という。私はずっと、普通に東京で生きてきた。けれど、

赤野にとってはまるでこの世に存在しないかのような女に思われていたのだろうか。

 そう思うと、赤野と愛を確認しあった今でも、何か吹き飛んでしまいそうな絆のようで、一瞬寂しかったのだ。

 赤野は優妃のその表情を見逃さなかった。彼は、不謹慎だが今の彼女の表情をカメラに収めたい、と

思った。美しい憂いの顔だった。

 「今は、もちろんあなたはここにいる。俺は夢を手に入れたってことだよ」

 「にしては、最初の頃私たち喧嘩ごしだったよね」

 「‘私たち’?」

 「・・・・・・私だけ」

 2人は笑い合って、体を巻きつけるように抱擁しあった。軽く遊ぶようなキスが、やがて深く官能的になって、

それからはまた夢中で時が過ぎていった。

 

 午前2時を少し回った。優妃は、ベッドに座って、自分の走る写真をずっと見ていた。隣りでは、赤野が

寝息をたてている。写真から目を離し、赤野に視線を移す。

 乱れた髪が、長い睫にかかっている。口を引き結んで深く息をしている。筋肉質の胸板が、息をするたびに

大きく上下していた。そっと毛布をかけ、優妃は込み上げてくる愛しさを自分の中で噛み締めていた。

 そしてまた、赤野が撮った自分の走る姿を、食い入るように見つめた。

 

     

  

 

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