<<< 喫茶店 毬藻 >>>

 

−フデバコ・2−

 

 カラカラ、と店のドアが開く音がした。この時間に来る人間といえば、才田ともう一人しかいなかった。

 「お母さん」

 ドアの入口を少しだけ開けて、ランドセルを背負った男の子が顔をのぞかせた。

 「いっくん。おうちの鍵きちんとかけてきた?」

 毬藻店長が優しく声をかける。うん、と、いっくんが大きくうなずいた拍子に、かぶっていた帽子が前へ

ずり落ちて顔の半分を隠してしまった。

 優妃が笑いながら帽子をなおしてやると、いっくんはテレ笑いをしていってきまーすと元気に駆け出して

行った。

 「しかしいっくんも偉いね。毎朝お母さんのお店に表敬訪問だからね」

 「うふふ、一体何年生まで、これをやってくれるのかしらねって思う時あるんですよ。」

才田の問いに、毬藻店長はふわりと頬をゆるませて笑った。

 湯気の向こうで微笑む店長の顔を見ながら、優妃はつくづく店長の夫は罪なヤツだと、会ったこともない

のに(しかも他人の家庭事情なにのに)腹立たしく思う。

 毬藻店長の夫、仁、当時33歳は、身重の店長当時32才を捨ててアメリカへ旅立ってしまった、絵描きの

はしくれで、書いていた絵は結構前衛的で売れていたが、修行のためだか何ナノだか、とにかく妻子を捨て

て自分の欲求を満たすためだけに行ってしまった、と。

 いっくんには、お父さんはいっくんが生まれる前に死んでしまった、と言っているらしい。

 そう店の常連でもある芽衣から聞いた優妃は、芸術家と結婚するものではないと改めて心に誓ったのだ。

 

 「おばあちゃん?」

 「はいはい、優妃かね。元気にしとる?」

 その日の午後8時、ベッドに寝転がって優妃は祖母に電話をしていた。

 「あのね、仕事順調にやってるよ」

 「そうね、それはよかった。でもおばあちゃんは心配しとるとよ。あんたが無理に働いとらんっちゃろうね、と

思ってね」

 「なんで?もともと失業中の身やったし、それってよくないけんさ」

 祖母と話すとついつい地元の方言が出る。優妃はぐっと起き上がって、バッグから手帳を取り出した。

 「あ、あのねおばあちゃん、今月分は27日に送金するけんね、確認しとってね」

 優妃がそう言うと、祖母のカナはしばらく黙り込んだ。そして、ため息とともにこう言った。

 「優妃、本当にもういいんよ。お金のことは、おばあちゃんなんも思っとらんけ、返さんでよか。いつも言いよ

ろうが?」

 「だーめ。返さんといけんの。っていうか、これは類が返しよると。そう思っとって。」

 「そうは言っても、結局あんたが毎日働いた金やろうもん」

 「ううん、これは後から、類のヤツを見つけた時に5倍返しで利息もつけてふんだくってやるけん、いいと。」

 その優妃の言葉を聞いて、カナはふきだした。まだ60代の若い祖母は、とても元気によく笑う。

 「あんたって子は、ほんとに根性あるね。類はなしてあんたに似らんかったちゃろうね」

 「類はお父さんに似とるっちゃん。ダメ男よ。お母さんも哀れなもんよね」

 カナとの電話を終え、優妃はキッチンに立った。コーヒーを入れるため、お湯を沸かす。

 祖母が類のために、大金を用意してくれていた日のことを、昨日のことのように思い出す。

 彼女の弟の類は、あるつまらないいざこざが原因で傷害事件を起こした。昔から何かと問題児だった彼は、

ついに執行猶予つきの前科ものとなり、出所してからは以前からの多額の借金を残して姿を消した。

 「つまり、ゴキブリ以下よ」

 だんだんと思い出して腹が立ってき、優妃は大きな音をたてて食器棚を閉めた。

 何社ものサラ金会社からの督促状が毎日のように優妃の実家へ届き始めた頃、優妃の母親は自分の母親、

カナに相談したらしい。あるとき、優妃はカナに家にきてほしいと言われ、新幹線に乗り故郷へ帰った。

 差し出された100万円が入った封筒を、優妃は固まった身体で見ていた。

 「お母さんから聞いたと。お母さんもどうにも動けん立場やけ、すまんけど優妃、お母さんからその督促状を

受けとって全部入金しとってやらんね」

 「なんでおばあちゃんが。だいたいこれは類が一人でやったことやろ?立て替えてやることが優しさとは思わ

んもん、私。ほっとけばいいんよ」

 市営の狭いマンションに一人で住む祖母にとって、100万円は大金であるはずだった。祖母にここまでさせ

た類と母親に、怒りを通り越して呆れ果ててしまう。

 「いいんよ。類も根っから悪い子じゃなかと。それはおばあちゃんがようく知っとるんよ。お母さんも新しい旦那

さんの手前、お金は用意できん、督促状も隠しつづけるわけにもいかんじゃろうって。利息もどんどんつくし」

 優妃が大学に入った頃、母親は再婚した。前の夫が飲んだくれの最低だったのが反動になってか、今度は

中学校の教師が相手だ。

 その新しい夫に、母親は類の素行はいっさい知らせていない。いつかばれると思うのだが、ただ行方知れず

の息子がいる、とだけ伝えているらしい。だから、裁判も優妃か母親が交代で時間を作って行っていた。

 

 部屋を暗くして窓辺に立った優妃は、カーテンをあけて久しぶりに月を見た。祖母には決して迷惑はかけたく

ないと思うのだが、優妃の力ではどうすることもできなかった。そこで、いったん祖母のお金で借金を全て返し、

類の変わりに少しづつでも今度は祖母に返そうと決めたことを、今でもやはり間違っていなかったと思った。

 これでいいんだ。

 類め、今度姿をあらわしたら、首に縄つけて市中引き回しだ。

      

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