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-飛行機・2−

 

 「赤野副編、3番にお電話が入っています」

 締めきりが迫っている編集部は、殺気と熱気が紙一重に交差していた。赤野は、手にした原稿から目を

離さずに受話器を取った。

 「はい、赤野。」

 「あの、恩田です」

 ばっと顔を上げて、赤野は3秒ほど動きを止めた。せわしない環境の中で、異質のものを耳にした驚きと、

何よりあの晩以来初めて聞く優妃の声だったからだ。

 「・・・・・・、この前は、無事帰りついたの?」

 「はい。すみませんでした」

 少しこわばった声。まだ俺と話しをする時は、緊張するようだ、と赤野は思った。

 「あなたが謝ることはない」

 しばらくお互い黙った。それだけです、と、優妃が切りそうになったので赤野は慌てて続けた。

 「あさっての日曜日は、予定ある?」

 「いえ・・・・・・、特に」

 「お店が休みらしいね。少し、会いませんか」

 「ハイ」

 今いち気乗りしないような優妃から返事を引き出し、赤野は電話を切った。

 優妃が、自分を大きく誤解しているのはよく分かっていた。桜木仁のことで、目の敵のようにしている。

 今さら、人からどう思われようと、この仕事をする以上は赤野にとって痛くも痒くもないはずだった。

 けれど、今彼の脳裏に、短距離時代の話しを出した時の優妃の滂沱と流れる涙が浮かんだ。

 優妃は、彼にとって‘ただの’女性ではない。迷いの時代を後押ししてくれた、貴重な人だった。

 「それも、一方的な話しだよな」

 自虐的につぶやいて、一方的に優妃を追ったあの頃と、今また一方的に優妃を貴重な人と思った自分

に、苦笑いする。

 赤野は気付かなかったが、電話の会話から赤野の様子を気にしていた部下たちが、意外な目つきで

彼を見ていた。

 雑誌をつきとめたあの女性社員2人にいたっては、顔を見合わせて泣きそうな顔になっていた。

 

 日曜日の午前11時過ぎに、優妃のビルの下まで赤野が来ることになっている。あと5分ほどでその時間が

来るというとき、優妃は、部屋で座っていた。

 出かける準備はできているが、まだ信じられない気分でいる。謝るだけのつもりで電話をかけたのに、

またあの強引さに押しきられて会う約束をしてしまった。

 「会ってなにするんだろう」

 素朴な疑問。そう声に出して、優妃はひきつった笑いをした。私と会ったって、睨まれるばかりでおもしろくも

なんともないだろうに。

 怖い。やっぱり、赤野敬太は怖い。陸上時代を知っている事実からして、優妃の内面的に一筋縄ではいかな

い存在だった。

 怖いと思っている相手に会うということは、非常に気力がいる、と優妃は思った。

 控え目にクラクションが鳴った。窓から下を覗くと、黒い車が止って、サングラスをかけた赤野が降りる所だっ

た。優妃は大きく息を吸って、素足にサンダルをはいた。

 階段を降りて地上につくと、赤野は車の側に立って煙草を吸っているところだった。

 優妃の姿を認めると、タバコを口からとり、かすかに笑った。

 2人とも何も言わずに、赤野は無言で助手席をあけた。優妃は手に持ったバッグを無意識にギュッと握り

しめ一瞬躊躇したが、観念したように乗りこんだ。

 煙草をくわえたまま運転席にまわった赤野は、乗りこむとすぐ灰皿でもみ消した。

 

 クーラーがよくきいた車内は、うだるような暑さの外とは対照的に快適だった。汗がすっとひいていくのを感じ

ながら、優妃は、黙って運転する赤野を見た。

 ジーンズに黒いTシャツ。仕事の時とは違う黒い時計をしている。雅也は同じような格好でもどこか学生風な所

が抜けないが、赤野は違った。何気ないふうだが、なぜか日本人離れで大人の雰囲気を出している。

 「赤野さんて、おいくつですか」

 沈黙を破って、優妃は突然こんな質問をした。ちら、と優妃の方を見て唇の端で笑うような仕草をした赤野は

 「あなたより5つ上」

 とだけ答えた。ということは、29歳か。それなりの落ち着きがある。優妃は赤野の意志の強そうな顎のラインを

見つつ、続けた。

 「独身なんですか?」

 自分の緊張を悟られまいと、優妃は平静を装って質問攻勢でいくことにした。けれど、そんな自分の心境も

すでに見透かされていることも分かっていた。なぜなら、赤野は慌てず騒がず、前を向いたまま楽しげな目元を

崩さずにいるからだ。

 「そうだよ」

 「でも、お盆に帰るご実家とかないんですか?もし私との用事を優先させたなら、どうぞ気になさらないで。今か

ら帰郷しても遅くないですよ」

 「実家は鹿児島。めったに帰れない、仕事が仕事だからね。休みは今日1日だけ」

 「・・・・・・、貴重な休みを、私なんかに」

 「あなたなんか、じゃないさ。あなただから、休みを使ったんだ」

 優妃は言葉が出ずに、前を見た。どういう意味か、分かるようで分からない。これはやはり、はっきり意見を言うし

か彼と対等に接する方法はない、と、体ごと赤野方へ向けた。

 「この前の続きだから?陸上時代の話しを聞きたいんですか?つまり、今日は取材ということですか?」

 信号停車して、赤野はハンドルに腕をあずけてグイと優妃の方へ向き合った。優妃の眼を覗き込むようなその

仕草に、優妃は体を固まらせた。お互い妙に真剣に向き合う格好になった。

 「どれも違う。黙って、ついておいで」

 赤野はなおも優妃の顔を穴があくほど見た。そして、体を起こして車を発進させた。

 優妃はしゃべる気力を失って、黙りこくって前を向いた。

 

     

 

 

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