<<< 喫茶店 毬藻 >>>

-飛行機・1−

 

 喫茶店毬藻は、店を開いて5年目にして、初めての長期休暇を迎えた。

 長期、と言っても、お盆の間13日から15日まで、3日間のみ。毬藻店長の実家が新潟県にあるのだが、

いっくんを産んで初めて、実家に帰るらしい。

 その辺りは、優妃も詳しくは知らない事情がありそうだった。芽衣がこの前、店長は一人でいっくんを産んだ、

と言っていた。

 自分の両親からも絶縁状態になるって、どういう気持ちだろう。

 優妃は、明日から休みのため、店内の細かいところを点検しながらふと考えた。

 幸い、優妃の家族はバラバラになりはしたが、絶縁、とまではいっていない。死亡1名、再婚1名、行方不明

1名。祖母のカナだけが、優妃に常に連絡をとってくれる。

 今年の夏で、優妃が九州に帰らなくなって5年目になる。成人式の日に帰郷して以来、一度も帰っていない。

 帰る家がない、というのが、一番の理由かもしれない。

 「明日から3日間、どうしようかな」

 その優妃のつぶやきを耳にした毬藻店長は、作業の手を止めて言った。

 「新潟、一緒に来る?旅行気分で」

 「いえ、ご厄介になるわけには。いいんです、なんとか、部屋から出ずに過ごします」

 「不健康ね、若い人が・・・・・・」

 わざとそう言って、2人で笑い合った。

 

 優妃が帰宅して、5分ほどたったころ、芽衣が顔を出した。

 「明日から新潟でしょー?今日はいつも通り?」

 「うん、8時までやるわよ」

 そう、と頷いて、下着の入ったサンプルケースをドサリと椅子の上に置き、カウンターに座った。

 「いっくんは?」

 「上で絵を書いてるわ」

 夏に入るぐらいに、この喫茶店の2階を借りてそこを桜木親子は自宅とした。店長が4時半ぐらいに

抜けて、2階に夕食を作りにいく。そして、8時の営業時間が終わるまで、健気ないっくんは一人で

過ごすのだ。

 と、時間差で、店のドアが開いた。毬藻店長と芽衣が同時にその方向へ眼をやると、赤野だった。

 「あら・・・・・・、いらっしゃいませ」

 「こんばんは」

 背の高い男が立つと、店内が急に狭く感じられる。

 「あの、優妃ちゃん、今日はもう帰ったんですが・・・・・・」

 毬藻店長が、申し訳なさそうに言う。赤野は、口をぎゅっと結んで微笑んだ。

 「そうですか、いえ、いいんです。今日は、コーヒーを飲みに来ました」

 窓際奥のテーブルに座り、夜の街を眺める赤野に、毬藻がコーヒーを持っていった。

 煙草、いいですか?という手振りをしたので、毬藻はニッコリと頷いた。煙草に火をつける動作を、テーブルの

脇から去らずじっと見守っていた毬藻は、切り出した。

 「お仕事、お忙しいですか」

 「ええ。今、次の取材先まで少し時間があいたので・・・・・・」

 疲れが隠せない赤野の顔色を、毬藻は心配そうに見守った。そして、小さな声で遠慮がちに続けた。

 「あの、赤野さん。ちょっと聞きたいのですが」

 はい、と赤野が顔を上げた。

 「あの時・・・・・・、記事の問題の件ですけど、あなたは優妃ちゃんに、真中さんの嘘を見抜けなかったって、

おっしゃったそうですね?文章を読んでも、了承を得ていないという事実を発見できなかったって」

 また少し、目線をテーブルに落とした赤野は、ええ、と頷きながら再度顔を上げた。

 「でも、私あなたほどの方がそんなミスをするなんて、考えられないんです。思うんですが・・・・・・、あなたは記事を

読まれていなかったのでは?」

 しばらく沈黙が続いた。赤野は、薄暗くなった中を家路に急ぐ人の波を、窓から見つめていた。そして、きっぱりと

言った。

 「言い訳になるかもしれないので、あまり言う気はなかったのですが・・・・・・、私はちょうどその前後3週間、イギリス

に取材で出張していました」

 「そうでしたか」

 毬藻は、ほっと胸を撫で下ろすように息をはいて、赤野を見た。その視線を感じて、赤野はふっと笑って首を振った。

 「言い訳です、ただの」

 毬藻は微笑んで、頭を下げた。

 カウンターに戻ると、芽衣がキツネにつままれたような顔をしてぼんやりとしていた。

 「芽衣?どうしたの」

 「いや、何でも・・・・・・」

 毬藻店長は、彼女の顔に顔を近づけて、店の奥にいる赤野に聞こえないように声を潜めて言った。

 「いつものあなたなら、‘アートノイズは帰れ!’とかなんとか言って、彼を追い出す。そうしそうだけど?どうしたの、

今日は」

 「どうしよう、毬藻」

 「え」

 「あの副編集長、あんなに男前だったの?気がつかなかった・・・・・・。ああ、彼の前で気の強い女を演じてしまっ

た!」

 頭を抱えた芽衣を、毬藻は吹き出したい気持ちをこらえて見ていた。演じてたの?あれ。と、小さくつぶやいた。

 

 節約のため、クーラーをつけずに扇風機一つで夜を過ごすことにした優妃は、ぐったりと身を横たえた。

 「暑い・・・・・・」

 こんなに寝苦しい夜は、今年一番じゃないだろうか。何度も寝返りを打って、イライラしながら目を閉じた。

 しばらくして、先程珍しくかかってきた母親からの電話を思い出した。

 「何か、いい話はないの?」

 こうきた。

 「あるわけないやん。だって、生活していくので精一杯やし」

 「そう。でもそろそろ、こっちに帰って来て結婚するのも、いいかもしれんよ」

 結婚・・・・・・。そう母親から言われて、瞬時に頭に浮かんだ人物の顔を、優妃は今また思い浮かべてうめいた。

 誰でもない、赤野だった。

 なぜ急に頭に浮かんだのか。優妃にも説明がつかなかった。確かに、1週間前、彼に対してとった行動を、優妃は

悩んで後悔していた。あの時、我を忘れてしまった。それほど、陸上をしていた過去が、彼女にとって宝物だと同時

に、触れられたくない、思い出したくないことだった。

 類のことが原因でケガをしてしまった、その自己管理の甘さを、今でも優妃は呪っている。

 あの時、あのレストランで、まるで少年のように眼を光らせて、優妃の顔を見て話していた。優妃の走る姿を、ずっと

追っていたと言った。それは、決して作り事ではなく、彼の本心から出た言葉に間違いなかった。

 ただ優妃を恐れさせたのが、「なぜ競技を辞めたのか」、その質問だった。

 負けたのだ。私は、自分の甘さに負けたのだ。

 

 ふと、あの後一人残された赤野を想像した。やっぱり悪かったかもしれない。思い出させた彼も悪いが、逆上した

私も悪かった。

 優妃は、掛布団を跳ね除けて、水を飲みに冷蔵庫へ向かった。

 

     

 

 

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