<<< 喫茶店 毬藻 >>>
−ファインダー・3−
「人を傷つけて一緒になった俺らは、やっぱり長続きしなかった」
目の前のアイスコーヒーには手をつけず、雅也はじっと優妃を見ながらボソっと言った。優妃は目線を
下げて、何も相槌を打たなかった。
俺ら、というのは、雅也と恵子のこと。雅也が優妃以外の人との関係を「俺ら」という事実に、優妃は久しぶり
に胸が痛んで、ちっとも自分が進歩していないことを悟った。
「あの頃の優妃は、類のことで悩んでたよな。俺、最低だよ。そんな優妃を追い詰めて」
優妃は、もう何も言葉を返さなかった。
いわゆる、略奪婚ではないけれど、強引に宮地恵子に雅也を奪われた形になった大学2年の冬。
雅也のアパートを訪ねた優妃が見たものは、玄関の小さなブーツ、奥の部屋へと続く道すがら点々と落ち
ているスカートやストッキング、キャミソール。
悲鳴に近い叫び声をあげた優妃は、半分意識を失いそうになりながらその場を走り出た。追いかけて来て
いる雅也の足音は、優妃には地獄の底から追いかけてくる恐怖の足音にしか聞こえなくて、一心不乱に
‘逃げた’。
クーラーのよくきいた店内で、優妃はストローの入っていた紙を弄びながらついにあの出来事を振返った。
ふっと、その時の恐怖体験にも近い衝撃が体を襲い、優妃はギュッと、目をつぶることでかろうじて自分を守った。
そんな今の優妃の動作を見て、雅也は言葉を失ってうつむいた。
やはり、普通に会うには早過ぎた。
同じ思いが、2人の胸をよぎった。
「おはようございますー」
次の日、優妃が喫茶店に出勤すると、毬藻店長はニッコリと優妃を迎えながら開店の準備をしていた。
「おはよう、優妃ちゃん。あのね・・・・・・」
「はい?」
「たったさっき、優妃ちゃんを訪ねてきた人がいるのよ」
毬藻店長は、少し目を細めたような顔をして切り出した。エプロンをつけながら、優妃は昨日のこともあって雅也
ではないかとふと身構えた。けれど、毬藻店長の口から出た人物の名前は意外だった。
「アートノイズの、赤野さん。出勤途中みたいな感じだったわ。‘従業員の、あの彼女はいますか’なんて言うから、
私少しおかしくなって。朴訥な人だなーって。」
クスクス笑って、毬藻店長は優妃の腕を自分の肘で軽く突ついた。
「もうすぐ来ますって言うと、また改めて伺いますって風のように去っていったのよ」
優妃の頭の中に、ハテナマークが浮かんだ。背の高い、鋭い眼光の赤野敬太が瞬時に脳裏に浮かぶ。コワイ、
一瞬そう思った。
「ひえ。私に何の用なんでしょう。なんだかオソロシイなあ・・・・・・」
「この前来た時も、優妃ちゃんに対して変な表情してたしね。前にどこかで会ってるんじゃない?」
頭をかしげながら、また別のことで優妃は店長に質問したくなったので思いきって聞いた。
「店長・・・・・・、アートノイズでは嫌な目に遭ったじゃないですか。けれど、赤野さんに対しては大丈夫なんですか?
なんだったら、私が赤野さんに連絡して、ここにはいっさい来ないように言いましょうか?」
優妃の正義感に燃えた目を見て、また毬藻店長は吹き出した。サンドウィッチ用のレタスをバリバリちぎりながら、
楽しそうに言う。
「いいのよ、そんなこと。あの件に関しては、もう落ちついたし、彼は誠意を持って対応してくれたから。彼に対して
はかえって好感を持ってるのよ。私もいい人生勉強になったしね、あの件では」
へえ、と優妃は改めて毬藻店長の顔をマジマジと見つめた。
これが、若い優妃と人生経験を積んで来た店長との違いだろう。かなわないな、と優妃は思った。
「そうなんですか。でも・・・・・・私はまだ許せないなあ。赤野って副編集長も、やっぱり普通の感覚じゃないですよ」
「よく知らないんでしょ?赤野さん自身の事」
「知らないですけど・・・・・・・。でも赤野さんについて私達がこうやって語ってること自体、なんか不思議ですね」
「そうね」
優妃は冷蔵庫からオレンジを取り出して、切り始めた。
一体、私に何の用事だったんだろうか。そればかりが、気になった。
「あら。優妃ちゃん、髪を随分切ったのね」
毬藻店長が、目を丸くして驚いた。
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