<<< 喫茶店 毬藻 >>>
−ファインダー・1−
「質感といい、色といい、触り心地といい・・・。いいね」
優妃は思わず吹き出す。才田が、彼女の毛先を手に取りしげしげと眺めている。
「店長、なんか嫌な感じですよ、いやらしくて」
「アホ。俺は純粋に、優妃ちゃんの髪の毛だけについて語っているの。他の場所についての感想なら、セクハラ
だけど、髪ならいいだろ。ましてや俺は美容師だし」
床に散らばった毛を掃いていた富樫が、そういう才田を苦笑いで眺める。
今日は、喫茶店が週に一度の定休日。才田の美容室に一度行ってみなくてはと思っていた優妃は、髪が知らない
間に伸びていることに気付き、早速出かけたきた。
いつのまにか、本当にいつのまにかという感じで腰近くまで伸びていた。
4月からこの夏に入るまで、無我夢中で働いてきた。1日でも多く出て、得たお金をできるだけ祖母に送金してきた。
8月の容赦なく照りつける暑さに、思わずはっとしたとき、優妃は自分の髪の毛をこんなにほったらかしにしていたこ
とにもはっとした。
「でも、優妃さん、いいんですか?せっかく伸びてるのに、20cmも切るんですか?」
富樫が心配そうに鏡の中にいる優妃に語りかける。高校を出てすぐ、この才田の店に見習として勤め始めた富樫は、
まだ少年の面影が残るあどけない顔をしている。
のんびりと心根の優しさを伺わせる人柄で、優妃はとても彼が好きだ。
「いいの。だってさ・・・、20cm切ったって、まだ肩の下だよ。そうですよね?」
才田に意見を求めると、はさみを握って切るための椅子に腰を落ちつけた才田が、優妃の頭のてっぺんに手を置い
て、鏡を眺めた。
「うん、だね。全然余裕で、長さは残るよ」
「ですけど・・・。俺、優妃さんのロングヘアーがすごく気に入ってたんスけど。優妃さんスラリとして、で、長い髪が風
になびくと思わず‘おおっ’って見とれるような感じで。」
「へええ、そんなふうに見ててくれたんだ」
思わずからかうように富樫を見る。お世辞ではなく心から言っているらしい彼の言葉に、優妃はこそばゆいような恥ず
かしいような気持ちになる。
でも、優妃は切る気持ちは変えなかった。
腰近くまであるストレート。雅也が好きだった、優妃の髪の長さとちょうど一致する。
別れた時に深く考えずにばっさり切った髪が、また同じ長さになった。
ほぼ生理的にその長さを受け付けなくなった優妃は、何の迷いもなく切ることにしたのだ。
何となく軽くなったような頭を、優妃は風になびかせながら自転車を走らせた。
じっとしているとすぐに汗ばむ気温が、こうやって自転車に乗っていると風を全身に受けて心地よい。ただ、自転車
から降りた時は汗が吹き出るけれど。
ビルの駐輪場に自転車を止め、ペタペタとミュールの足音をさせ階段を昇った。
自分の家がある階まで昇りついた時、人影が見えて優妃は足を止めた。
相田雅也が、彼女の家のドア付近に立っていた。
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