<<< 喫茶店 毬藻 >>>

 

-コーヒー豆・2-

 

 「・・・・・・」

 真中美也子と名乗った若い編集者は、思いがけない切り返しに一瞬言葉を飲みこんだようだった。

しかし、落ち着き払った声でまた話し出した。

 「お時間はとらせまん。ただ、少しお話を伺えばそれで帰りますので。何もそちらに支障はないと思う

のですが」

 「支障があるからお断りしているんです」

 小さく口の中でため息をついたように見えた真中は、かまわずにバッグの中から赤いスケジュール帳を

取り出してめくった。

 「来月号に乗せるためには、今日か明日中に取材させていただかないと間に合わないので」

 「それはそちらの事情でしょう」

 一体、何のことを言っているのか。事の成り行きが飲みこめないだけに、優妃はハラハラとしながらやりとり

を見守った。普段温厚な毬藻店長がこんなに断固とした態度を取ることからして、ただ事ではない。

 いっくんも、この空気を悟ってか凍りついたように椅子に座り、その若い編集者を見上げていた。

 いっくんの視線に気がついて、真中はふと目の力を弱めた。

 「あなたが一郎君?」

 いっくんの側へ寄った時、真中の目にまた強い光が走ったように優妃には思えた。まるで動物がエサをみ

つけたような、そんなイヤな貪欲さが感じられた。

 「これ、あなたが書いたの?」

 「うん。いっくんが書いたの」

 顎に手を持っていって、しげしげといっくんのスケッチブックを見つめている。これは何かヤバイことになりそう

だ、と本能的に感じた優妃がこの場を何とかしようと口を開きかけた時、「どうもー!」という声と共にドアが大き

な音をたてて開いた。

 「アー、疲れた。毬藻、コーヒー入れて・・・・・・」

 勢いよく入ってきた芽衣が、ふと足を止めて真中をじろりと見る。そして、真中なんか見なかったような素振りで

カウンターへドサリと座った。

 「今日の試着会は疲れたー。50代のオネエサマ方の迫力には、私もかなわないわ。あれ、いっくん、また上手

に書けてるねえ」

 かまわずしゃべり続ける芽衣に勇気付けられてか、今まで顔が氷のように固まっていた毬藻店長も強気にたた

みかける。

 「今からお客さんが増える時間帯ですので、出ていってもらえますか」

 同時に、本当に5人ほどの中年女性グループが、店内に入ってきた。真中は険しい顔をする。

 「・・・・・・、またお電話させていただきます」

 

 「何あれ?」

 彼女が出ていってすぐに、芽衣が口を開いた。

 「ぱっと見て、毬藻にとってありがたくない客だってすぐ分かったけど。まだ若いのに、威張った感じねえ」

 一目で人物を見分けてしまうところが、芽衣の恐ろしいところだ。優妃はその能力にいまさらのごとく感嘆しな

がら、手に持ったままだったエプロンをつけた。とにかく、奥の席に陣取ったお客さんにお冷を持っていかなく

てはならない。とりあえず、この場は何も聞かずに働くことにした。

 午後6時過ぎ、優妃の勤務時間が終わる頃には客足も少し途絶えたので(まだその場にいた芽衣も一緒に)

毬藻店長から事情を聞いた。

 あの「アートノイズ」とは、新進気鋭の芸術家ばかりを特集する創刊まもない雑誌で、来月号は巻頭に桜木仁、

すなわち毬藻店長の夫の特集を組むというのだ。

 毬藻店長の夫は、今ニューヨークでアジア系アーティストとしては1番名が売れ、美術商にも最も注目されて

いるホープ、とのことだった。

 しかも、先週開いた個展が大成功をおさめたとのことで、真中はどうしてもこの特集のために日本にいる彼の

妻子に私生活のことなどを取材したい、と申し出ているらしい。

 「私と彼は、もう書類上の夫婦だって、何度説明しても分からないのよ」

 そうため息まじりに言う毬藻店長の顔を、優妃はじっと見た。

 芽衣が椅子の背もたれにグッと体をあずけ、綺麗なラベンダー色のスーツが店内の明かりに照らされて眩しい

ほど光った。そしてこう続ける。

 「だいたいああいう雑誌だの新聞社だのの編集者って、相手の都合なんかおかまいなしなんじゃない?でも

これって訴えてもいいぐらいのしつこさよね。いわゆるプライバシーの侵害ってやつ。」

 「・・・・・・訴えるだのどうこうっていう気はないけれど、私が心配なのはただ一つなのよ。」

 「いっくんですか・・・・・・?」

 そう言った優妃の方を向いて、毬藻店長は微笑んだ。

 「そう。いっくんには、‘お父さんは死んだ’って言ってあるから・・・・・・。今更いっくんの心を乱したくないの。

私たちの生活を乱されたくないの」

 うん、そうね、と芽衣が頷いて、反らしていた背をもとに戻した。

 書類上の夫婦。そういう店長の目が、一瞬泳いだことを優妃は見逃さなかった。

 そもそも、2人が別居状態だとしてもなぜ正式に離婚しないのだろうか。なぜ、夫の桜木仁さんはこの喫茶店

に尋ねて来たりするんだろう。

 なぜ、あの時店長は泣いていたんだろう。

 真中の態度について延々と文句を言っている芽衣にコーヒーのおかわりを注ぎながら、優妃はふと思った。

 店長は、まだ夫を見放せないでいるのではないか。

      

 

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