<<< 喫茶店 毬藻 >>>

 

-コーヒー豆・3-

 

 優妃の住むマンションへの帰り道に、第1級河川に認定されている大きくて広い川がある。その

川に架かる橋を毎日渡る彼女だが、春から夏に近づくにつれてどんどんと日が長くなっていって

いるせいもあり、ちょうど優妃が帰りにここを通る時間帯は空が茜色に染まり、都会とは思えない

雄大な景色が広がる。

 たまに、少し立ち止まって景色を見つめるクセのある優妃は、その日はいつもより長くそこに佇ん

でいた。

 今日はなんだか、色々とあって疲れた・・・・・・。そうつぶやく。

 何よりも、雅也。あんなところで会うとは、予想も出来なかった。

 彼は優妃の幼馴染でもある。幼い頃からいつも一緒で、小・中・高・大学と同じ所に通った。いつの

頃から異性として意識し始めたのか、まったく優妃には覚えがない。

 男女の関係になることが、しごく当然のように思えた高校2年生の夏。

 大学へ通うため上京した2人は、2年生まで順調だった。

 順調に見えた、のかもしれない。お互い馴れすぎて、わがままを押しとおそうとする、そんな兆候が、

2人に見られた。

 それから先の出来事を思い出そうとしたとき、優妃は無意識にギュッと目をつむった。

 目も、耳も、心も閉ざしておきたい。永遠に封印しておきたい。思い出して傷跡に塩を擦り込みたくない。

 きっと、彼女の脳がそう心に命令したのだろう。

 ため息をついて、だんだんと薄暗くなる空をいつまでも見つめていた。

 

 「これ、どうなの」

 3週間ほどたった朝早く、才田が珍しく真剣な顔で店内に飛びこんできた。テーブルを拭いて周っていた

優妃は、ちょっと驚いて才田の持っている物を受け取る。

 そこには、目もとの涼しい精悍な顔をした男性の写真があり、右下に「Jin Sakuragi」とある。やはり、あ

の時すれ違った男性は毬藻店長の夫、桜木仁だったのだ。

 優妃は非常に嫌な予感がして、喉がふさがりそうな不快感を覚えた。

 「ここ見て、ここ」

 才田が3ページ先をめくったそのページに、この喫茶店毬藻の外観写真が、わざとぼやけた写真で載って

いる。下に写真の説明として、「桜木氏の日本に住む妻は、東京で喫茶店を経営」と書かれてあった。

 「ひどい、これって、勝手に・・・・・・」

 「だろう、多分勝手に載せてるんだと思ってさ。本文の中にも、妻子のことを微妙にほのめかす文章がある。

店の子が今朝もって来た時には、驚いたよ」

 事情をやはりよく知っている才田は、憤懣やるかたないという表情で宙を睨んだ。

 優妃は胸の中がグラグラと沸き立つような憤りを覚え、雑誌を持っている手が震えるようだった。本文には、

いっくんの画才を褒めるような内容まで載っていた。

 

‘息子のI君は、父親の血を受け継いで将来有望である。彼は私たちが発掘した未知の宝でもあるようだ。

下校中のI君に質問してみる。

「将来は画家になるの?」「うん、なりたい」「お父さんみたいに?」「お父さんは、死んだんだよ。お父さん、

画家だったの?」この何も知らない(父親の偉業を知らない)少年が、憐れに思えた。’

 

 「才田さん」

 ひどく低い声が出た。その声の凄みは、才田も思わずたじろぐほどだ。

 「明日私お休みなんです。それで、直接編集者に会ってきますので、この雑誌のことは店長には黙っていて

くれますか?」

 「一人で行くの?」

 「ええ」

 才田は何も言えずに、ただ小さく頷いただけだった。

 自分がなぜここまで毬藻親子についてヒトゴトではなくなるのか。細かいことはよく優妃にも分からない。

 心の広い毬藻店長、その息子のいっくん。2人が肩を寄せ合ってこの広い東京の片隅で一生懸命

生きているのを目の当たりにしてきた優妃としては、見逃せないことであることは確かだった。

 恋に破れ、弟に裏切られ、家族は分裂。常にお金に困っている。

 そんな自分と、毬藻店長親子には何か‘本気で生きている’という共通の感覚があるように、思っている

からかもしれない。

 

 ‘本気で生きている’私たちを弄ぶのは、許せない。

 

 そんな気持ちが、優妃の体を駆け巡った。

 昔の優妃ならば、そんな感情は負け犬の感情だと思ってかもしれない。けれど今の優妃には、負け犬の

プライドこそ、血を流しながら生きている証しだ、と自信を持って言える強さがあった。

 やけくそだ、と言われればそうかもしれない。やけくそでけっこう。やけくそのない人間なんて、格好ばか

りだ。

 一気にそんな言葉が、ぐるぐると彼女の脳裏を巡った。

 

      

 

 

 

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