<<< 喫茶店 毬藻 >>>
-コーヒー豆・4-
「え?真中?今取材に行ってますよ」
大手出版社の本社ビル。その5階に、「アートノイズ」編集部はあった。こんな場所に来るのは初めてで、しかも
雑然として人々が忙しく行き来するこの空気に、優妃は圧倒されそうだった。
あちこちのデスクで、電話が鳴り響いている。しかし、その電話を取る人間の数が足りていない。けたたましく
鳴っている側でまるで何も聞こえないかのように必死で何かを書いている記者の姿もあった。
対応に出てきた若い女性は、それどころではない、という態度がありありと分かった。けれど、こんなことで
負けてはいられない。
「今月号の特集記事で、少しお話があるのですが」
「特集は真中が担当でしたので、彼女じゃないとちょっと分からないですね」
「・・・・・・」
「・・・・・・一応お聞きしておきます。どういうご用件ですか?」
優妃は気持ちが萎えそうな気分になって、さっきまでの勇気がどこかへ行ってしまったように感じた。大手の
雑誌編集部。個人の気持ちなんておかまいなしの、これではまるで「フロイデー」や「女性マンデー」のような程度
の低いワイドショー雑誌ではないか。
そう言葉に出そうと思いきって口を開いた時、背後の上の方から声がした。
「どうした?」
振り向くと、優妃よりも20cm以上は背が高いと思われる男性が立っていた。
「あ、赤野さん」
助かった、というような顔をして、その女性は優妃の後ろの男性を見上げた。
「こちらの方が、今月号の特集についてお話があると言われるんです」
じっと、男性が優妃を見下ろした。この人も他の人同様、私を軽く鼻の先であしらうのだろうか。けれどその男性は
ちらりと腕時計を見て、優妃の肩を少し押しながらこう言った。
「そうですか。お話を聞きましょう。山野さん、応接室にご案内して。すぐ行くから」
そう言われた先程の女性は、明らかに不服な顔をして、乱暴な態度で優妃を別室に案内した。
その応接室は小さな部屋で、黒いソファがあった。ドアを閉めると今までの喧騒とは打って変わって、静かな空間
だった。しかし今まで人の存在がなかったためか、ひんやりとして少し肌寒い。薄い黒のシャツワンピースを着ただけ
の優妃は思わず震えた。武者震いかもしれなかったが。ロングブーツをはいた足元だけは、暖かいままだった。
ソファーに座って待つこと10分、いらだちが募り始めた頃、先程の男性が入ってきた。
「お待たせしました」
向かいのソファーに腰を下ろしながら、ジャケットの胸ポケットから名刺を取りだし優妃に差し出した。
そこには、新渚社「アートノイズ」副編集長、赤野敬太、とあった。
黒のジャケットにタートルネックのセーターを合わせて、一目では編集に携わる人間とは思えない雰囲気があった。
何を職業にしているのか分からない、そんな無国籍な人間のように見える。年齢は、そう歳をとっているようには思え
ない。若くてキャリアもあって、と、こんな野心家(のように優妃には見えた)の人間を相手にうまく話せるだろうか。
そんな不安が優妃の胸をかすめた。
「さっそくですが・・・。私は桜木仁さんの奥さんが経営する喫茶店で働いているものです。」
桜木仁、という名前に、赤野は眉を少し上げて了解するような表情をした。
「奥さんと桜木仁さんは今は別居状態で、息子さんにはお父さんのことは話していません。なのに、真中さんという
記者の方は奥さんが取材を断っているにも関わらず、了解もなしに喫茶店の外観を載せて、しかも下校途中の息子
さんをつかまえて、勝手に話した内容を記事に載せているんです。」
優妃は目の前の赤野の存在感に押されて気後れしそうなりながら、けれど懸命に説明した。赤野はタバコを取り
出そうとした手を止めて、優妃の言葉に聞き入っているように見える。
「これは、許されることではないと思うんです。息子さんと2人だけで生きていこうと、必死で桜木仁さんの存在を
隠してきた奥さんの気持ちを踏みにじっています。大手の出版社である新渚社が、こんな人権を侵害するような
ことをやっていいとでもお思いですか?それとも、大手だから、取るに足らない人間たちのことはどうでもいいと思っ
ているんですか?ただおもしろい記事になればいいと。奥さんから訴えられても当然のことを、あなた方はやったん
です」
一気に言った優妃を、赤野はじっと見た。少し唇を舐めて考えるような仕草をした。そして、そのままギュッと唇を
引き結んだ。
「それは・・・・・・大変ご迷惑をおかけしました。真中には、今月号の特集をいっさいまかせてあったものですから。」
「結局、責任を真中さん一人になすりつけるんですね」
そう言って、優妃は自分でも驚いた。赤野も驚いた顔をした。どうしてこんなに強気に出れたのだろう?
ただ、人の心を見透かすような赤野の目と態度に、優妃はだんだんと焦ってきた。その焦りが大胆さを呼び起こした
ように思えた。
優妃が今まで接してきた人間とは明らかに違うタイプの人間。仕事のためなら人を利用するタイプ。赤野という人のこと
は詳しくまだ知らないけれど、印象で真中と同類だと優妃は決めつけた。
そうすると、押さえようもなく腹が立ってあのような言葉を発したのだ。
「真中さんが書いた記事を、あなたや編集長が最終的にチェックするんではないですか?その時点で、了解を
得ていない記事だって、気付かないはずありません。「アートノイズ」の雑誌の方針が、プライバシーの侵害も考えない
方針だってとられてもおかしくありませんよ」
赤野は何か言おうと口を開いたが、思いなおして閉じた。そしてまた開いた。
「言われるとおりですね。上が気がつかなかったのは弁解のしようもない。ご理解いただけないかもしれないが、我が
編集部ではプラバシーの問題を非常に重要に考えています。真中が桜木氏の家族から取材の許可を取った、という
話しは、私も側で聞きました。」
「あなたが聞かれていたのにもかかわらず、チェックの際に嘘を見ぬけなかった、そういうことですね」
赤野が、始めて言葉に詰まったように見えた。優妃は軽い優越感を覚える。
「桜木氏の奥さんは、このことについて何か?」
「いいえ。まだ知りません。私が知らせていません。傷つかせたくないので」
「・・・・・・」
背筋を伸ばして、赤野は大きく息をした。優妃にやりこめられている自分を意識して、プライドを取り戻しているかのよう
に優妃には見えた。
「今真中は外出しています。明日にでも、改めて謝罪にうかがいます」
やはり、毬藻店長の知るところとなるのか・・・・・・。優妃は沈んだ気持ちになった。できることならば知らせずにいたかっ
たが、けじめとしてそういうわけにはいかない。謝罪に来る、と言っているのを、断る権利は優妃にはなかった。
帰る優妃にドアを開けて見送った赤野の、鋭い目を感じて、再び優妃は悪寒を覚えた。まるで鷹が獲物を食べずに
わざと逃がしたような、複雑に貪欲な目をしていた。
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