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-コーヒー豆・1-

 

 5月。初夏の日差しが、ガラス張りになっているこの近代的なビル1階ロビーに、鋭く差し込んでいる。

 おもしろい帽子をかぶった受け付け嬢が、退屈な顔を押し殺して座っていた。

 

 今優妃は、おびただしい数の企業が入ったテナントビルのエレベーター前に立っている。行き交う人々

は、きちんとスーツを着込んだサラリーマンやOL。いかにも仕事ができそうな女性も何人も見かける。

 白いシャツにジーンズの自分がとても場違いに思えて、優妃は恥ずかしくなった。

 彼女は16階に入っている会社「澄田産業梶vへ、ランチセットを一つ配達に行っている途中だ。手に

持ったお盆に、今日のランチであるキノコのクリームパスタとサラダ、スープ、コーヒーを器用に乗せ、

ラップを上からかけている。

 エレベーターが1階へ止り、昼食へと出かける社員がドっと降りてきた。ぶつからないように脇へよけ、

ほとぼりがさめたころに乗り込もうとした時、誰かに大きな声で呼ばれた。

 「優妃!」

 振り向くと、相田雅也が驚いた顔で突っ立っていた。

 「雅也」

 2人は互いに、あまりの驚きで口も聞けないほどだった。途中、2、3回ドアがしまったが、階数を押してい

ないので動くはずがなく、そのつど優妃か相田が‘開’ボタンを押した。

 「私、上に配達に行くから」

 「そうか」

 不思議なくらい、冷静な声が出たと思った優妃は、16階のボタンを押した。しかし閉まりかけたドアを手で

止めて、相田が慌てて声をかける。

 「どこに勤めてんの?」

 優妃は答える変わりに、首を横に降った。

 

 グン、と身体が持ち上げられる感覚を意識して、優妃は足元をグラりとふらつかせた。

 まさか、こんなところで相田雅也と会おうとは。そうつぶやいた。

 3年ぶりに見た雅也は、昔と寸分も変わっていなかった。小柄で、フットワークが軽い雰囲気。短くかった少し

茶色の髪まで変わっていない。くりくりと大きく動く目も。すれ違ったときのタバコの匂いさえ、昔と一緒だった。

 あんなことがなければ、私たちはまだ今でも恋人同士だったのだろうか。

 3年前、何度も何度も自問し続けた言葉が、また頭をめぐる。

 優妃は、エレベーターの壁に背も垂れて大きなため息をついた。

 

 澄田産業の事務員さんにランチを持ってきたことを告げると、いつものことながら丁寧に挨拶をされお金を

いただいた。結局注文した社長、澄田正一さんは出てこなかった。奥の部屋で、大きな話し声が聞こえる。

電話中みたいだ。

 偶然の成り行きから喫茶店毬藻のコーヒーのおいしさに感動した澄田社長は、こうやってたまにランチを

注文してくる。

 優妃が睨んだところによると、毬藻店長のことをいたく気に入っているのではないか、と。

 店長はあの人当たり、あの気遣い、あの容姿で、着実に喫茶店毬藻の固定客を増やしていっている。社長

から一介のヒラサラリーマン、果ては殺人課の刑事まで、店長の人気は幅広い。

 

  階下に下りる際、優妃はまた雅也に会うのではないかと心臓が飛び出しそうになるほどだった。

 いやだ、会いたくない。それが率直な気持ち。

 2年近くかかって、傷を癒してきたというのに、その傷をまたえぐるような当人の出現という出来事に太刀打ち

できるほど、今の優妃には気力がなかった。

 まるで誰かに追われるように足早に、お盆を小脇にかかえてスタスタとビルを後にした。

 

 「優妃ちゃん、そんなに慌ててどうしたの」

 毬藻店長が、頬を赤く染めて荒く息を吐く優妃を見て、驚いた。午後4時近くで、学校から帰ったいっくんが

カウンターで絵を書いている以外、まだお客さんはいなかった。優妃はいっくんの絵を覗きこんで「上手ー」

と頭をくでゃくしゃ撫でる。恥ずかしそうに笑ういっくんが愛らしかった。

 初めて、あのスケッチブックに書かれたいっくんの絵を見たとき、優妃は腰を抜かしそうになった。小学校

1年生とは思えないタッチで、繊細な風景画が書かれていたのだ。ふんわりと、柔らかい色彩。また背筋がおそ

ろしいほどの感動のためゾクっとする気持ちを味わったものだ。そのことを毬藻店長に話すと、いっくんの画才

は学校の先生たちの間でも話題になっているらしい。優妃の目に、あの日本人離れしたロングコートの男性が

瞬時に浮かんだ。

 蛙の子は蛙か・・・。俗っぽい言い方だけど。

 

 優妃がお水を飲んでひとだんらくした所に、店のドアが開いた。グレーのスーツを着た背の高い女性だった。

 「いらっしゃいませ」

 「桜木毬藻さんはいらっしゃいますか?」

 切り口上、という物の言い方で、その女性は言った。

 「私ですが・・・」

 店長がいぶかしげに言うと、その彼女は肩にかけた大きな黒いバッグから名刺入れを取りだし、1枚カウンター

に差し出した。

 「わたしくし、‘アートノイズ’編集部の真中美也子といいます。2度ほどお電話で。」

 「帰ってください、お話することはありません」

 突然口調が変わりきっぱりと断った毬藻店長を、優妃はあんぐりと口を開けて見つめた。

     

  

 

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