+++ 悠々自適、そこに華を +++

 

 人間は、人里離れた場所に身を置くと、どうなるか。

 もし、人から何の脈絡もなくそう訪ねられたとしても、私ははっきりと、手を挙げて、こう答える

ことができる。

 「それには二通りあります。まず、喧騒から離れ心も身体も癒される。大らかに、あらゆる事象を

愛のこもった目で見守ることができるレベルにまで自分を高めることができる。そうした人間になる

タイプ。

 それとは逆にもう一つは、全てを斜に構えてしか見ることができない。新聞やラジオで世間の

出来事を頭に入れはするので論争したいけれども話す相手がいない。その鬱屈した除外感か

ら、他人の手を跳ね除けてしまうタイプ。いわゆる、偏屈ですね」

 

 昨晩の新人歓迎会でまさしく、偶然にも、その話題が座にのぼり、私は今の見解を熱く語った。

 企画広報課の主任、矢吹さんが、隣りに座ってそう力説する私を不思議そうなあっけに取られた

目で見ていた、と、後で同僚から聞かされた。そして、矢吹さんを敬愛する女性職員の多くが、あっけ

にとられ私を見つめる矢吹さんを、見つめていた、とも。

 

 後日、矢吹さんと一緒に、とある高校に学校説明会に行く機会があった。

 私が勤めている短大の企画広報課は、新入生を増やすため受験の時期を目指して近隣の高校

に学校説明に行くことが、仕事の一つでもある。

 新幹線で二駅。私たちは、しばらく黙って椅子に座っていた。

 窓の外は、快晴だ。雲一つない快晴。最近では珍しい気候だ。

 その雲を見ているうちに、私はある一つの物思いに深く沈んでしまった。

 

‘謙信の住む島の空は、きっと年中これ以上の快晴なんだろう。あの人は、1人で島の外れに住んで、

毎日何を考えているのか。あれほど都会の空気が好きな男だったのに。’

 

 「何か、飲む?」

 その声で、はっと我に返った。左を見ると、矢吹さんが車内サービスの女性を引きとめて私の反応

を待っているところだった。

 「すみません」

 「ええっと。僕はホットコーヒーを」

 そう女性に頼んで、私に矢吹さんが目で合図を送る。私は夢から覚めたように、慌てていた。

 「謙信を」

 「ケンシン?」

 矢吹さんが訝しげに私を見た。しまった、と私は慌てて、烏龍茶、と言い直す。サービスの女性は微笑

んでお茶を渡してくれた。

 「袴田さん、あなたって、おもしろいね」

 「そうですか」

 大しておもしろくもない女です。そう言うと、矢吹さんは顔いっぱいの笑顔で笑った。これだ。これが、

10代の学生から60代の教授まで、幅広い年代の女性から熱い視線を送られる要因となっている笑顔。

私も最初は、その魅力的な笑顔の前には言葉を無くすほど脱力してしまったが、毎日同じ部屋で働い

ているとそう毎回毎回しびれてはいられない。

 やがて、矢吹さんの素敵なキャラクターは私の中でごく普通の上司としか見れなくなり、私と矢吹さん

は男女抜きの上司と部下、という形が、きちんとできあがっている。

 それこそ、理想の職場関係ではないか。そう私は思っている。

 

 それよりも、昨日私のもとに届いた謙信からの手紙を、今烏龍茶を飲みながら私は思い浮かべている。

 「向上心のないものはバカだと、漱石の小説にもあるけれど、君はまさしくそのようだ」

 達筆な字で、ちくちくと前回私が送った手紙について水を差していた。

 「俺は、この澄んだ空気、美しい海、雲一つない空、時間がゆっくりと流れる島の風景に、すっかりと

心を洗われた。ここは、人生の核心がある。君に、いったい人生の核心なんて発見できるか?その汚

れた都会にいる君に。」

 

 「ああ、そうですか。それではくれぐれもその洗われた心で、悠々自適を満喫してください。」

 その一文だけ書いて、今朝私はポストへ投函してきた。電話が引かれていない沖縄の離島。彼がその

私の手紙を見て、怒り心頭で反論したくても、手紙を書いて投函し、私の手元に届くまで1週間近くかかる。

 少しかわいそうなことをしたかもしれない。こんなにも青い空を見ていると私は良心が痛んだ。

 翻訳の仕事1本で身をたてたい。その夢に向かって、謙信はがむしゃらだった。

 落ち着いてその仕事に打ち込める環境を見つけた。輝く目でそう言った謙信を、私はよく覚えている。

 

 謙信が長い手紙で私と論争したがっている裏事情が、私にはよく分かるのだ。

 彼は、刺激を求めている。理想の環境を手に入れたはいいけれど、そろそろ語り合う相手が欲しいのだ。

 「そうに決まってる」

 思わず呟いた私を、矢吹さんはもう驚きもせずに、横目で見たきり、手もとの資料に没頭している。

 一言、‘寂しい’と言ってくれればいいのに。

 その一言が出ない謙信が、私は謙信らしいと思うと同時に、本当に彼は偏屈な男になってしまっている

のでは、と心配してしまうのだ。

 

 「君はそうやって、自分をごまかしている。君の学生時代の夢を、俺はよく覚えているよ。児童文学の翻訳家

だったね。世界の優れた児童文学を、日本の子供たちに伝えることができるなら。そう言っていた。

 今君は何をやっている?私立の短大で、学生募集に必死に走りまわっているだけではないか。それが、

君の夢なのか?

 もしそれが君の納得した将来の自分の姿であるのなら、俺の今の生活を単なる‘悠々自適’と言う資格は

ないはずだ」

 

 「あなたは確かに、自分の夢を手に入れた。翻訳業に集中できる環境を手に入れた。あなたの翻訳する

ロシア文学は、専門家から評価を得ているようね。それは尊敬する。

 けれど、そんな何もかも手に入れた男が、どうしてこうやって私に色々と不平不満を言ってくるの?

 私のことなんて、無視しておけばいいじゃない。あなたが私の存在を振り切っててその島へ旅立って行って

しまった時のように」

 

 その私からの手紙を最後に、しばらく謙信から音沙汰がなかった。

 手紙が来ないなら来ないで、私は仕事中上の空になるほど心配だった。つねに信念を曲げなかった謙信。

あなたのあの憎らしい手紙でさえ、私はそれだけを2人の糸と思って大事にしていたのに。

 

 「袴田さん、リクエストされていた本が図書館に入っていますよ」

 内線電話で、学校の図書館から連絡があった。私は矢吹さんが手もとのパソコンに熱中している隙を見て、

ちょっとトイレへ・・・・・・という振りをしながら事務室を出た。

 図書館への階段を昇る私の足は、ふわふわと地上についていないようだ。

 「珍しい本を読まれるんですね・・・・・・、ロシアの小説みたいですね」

 仲のよい司書の女性が、私の顔を覗きこみながら聞いた。彼女には、まさか私の彼氏がこの本を翻訳している

とは夢にも頭に浮かんでいないだろう。

 私は無言で微笑みその新刊を手に持って、急いで図書館を後にした。

 短大の校舎に向かうまでの小道で、私はベンチを見つけ腰掛けた。本をパラパラとめくる。裏表紙に、作者と

翻訳者の紹介が載っていた。

 謙信の経歴と、今までの仕事。

 「若手ながらも、今後が期待されるロシア文学翻訳者の1人である」

 私は声に出して読んだ。

 そしてもう1度、パラパラとページをめくる。突然中の文章で、こんな会話文が目に飛び込んできた。

 ‘おまえの仕草を目に焼き付けて、私はこの場所から去ることにする。その仕草は、たとえおまえが目の前に

いなくても、いきいきと私の瞼の裏で再現されるだろう’

 空を仰ぐ。彼のいる空には及ばないけれど、今日も快晴だった。耳に、保育科の学生がピアノを練習している、

そのつたないメロディーが入ってくる。

 私は、我知らず目から涙がこぼれるのを防ぐことができなかった。

 

 「正直に言うよ。君に会いたいんだ。ここは、仕事をするには充分過ぎるほどの環境だけれど、君がいないと

調子がでない。将来のことはゆっくり話していくとして、とりあえず、会いたいんだ」

 

 1ヶ月後に来た謙信からの手紙。私はすぐさま1週間の有給休暇を申請した。

 矢吹さんがまた面食らったような顔で私を見ていたが、「まあ袴田さんには毎日残業でがんばってもらっている

から。今は忙しくないし、事務局長には僕からよく言っておくよ」とあの笑顔で言ってくれた。

 

 家に帰って準備をする。

 私はキョロキョロと辺りを見まわして、鏡の前に置いてあるリップやチーク、マスカラ、マニュキュア類を、ざっと

手でかき集めるようにしてカバンに落としこんだ。

 ピンク系で、華やかなメイク類。謙信が、化粧をした私の姿が好きだとよく言っていた。‘もちろん、すっぴんも

いいけどね・・・・・・’申し訳程度に付け加えるその言葉が、今私の耳に浮かんだ。

 離れていても、仕草が瞼の裏に浮かぶ・・・・・・。

 確かにそうだけれど、生身の人間だもの。夢をかなえていたって、悠々自適だって、華がないことには人生

つまらないわよ。

 そう呟きながら用意する私は、ふと目の前の鏡に映る自分を見た。

 

 華は私。謙信にとっての華は私。

 

 まるで暗示のように自分に言い聞かせて、私は午後一番の飛行機に間に合うように、慌てて家を後にした。

 

     

Background photo by Four seasons.

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