+++ 美しき香りのひと   +++

 

ある男性の告白

 

 自分には、つい違う世界に行ってしまいそうなほど呆然としてしまう・・・・・・

そんな種類の‘香り’がある。この機会に、洗いざらい告白する。

 つい最近までは、そんなものは私に存在しなかった。当たり前に朝起きて、

当たり前に朝食をかきこみ、当たり前に着替え、当たり前に出勤し。当たり前に

普通の成人男性がとるであろう行動をとる毎日だった。

 どちらかというと、‘香り’・・・・・・などという単語は、私には縁遠いものだった

のだ。敢えて言うなら、私の香りはせいぜい安物の整髪料、というところだろうか。

 ところが、毎日平凡に過ぎていくこの生活の中に、突然‘香り’が飛び込んで

来た。

 そしてそれは、非常に暴力的とさえ思えるほどの唐突さで、私を虜にした。

 

 ある5月の、晴れた朝のこと。いつも乗る車両に私は滑り込んだ。その日も

満員。運良く望んだ職業に就いた自分だが、このラッシュアワーをあと何十年も

やり過ごさなければならないのか、と思うと、げんなりとした幻滅を感じる。

 そして、その時。あの、先ほど述べた暴力的なまでの魅惑的な香りを感じ、

私はがつん、と頭を殴られたかのような衝撃を受けた。

 とっさに、周りを見回す。誰もが、無心の顔をしてただ前を見据えるか、

目をつむっている。誰だ?誰の香りだ?

 私は焦った。早くこの香りの正体が知りたい。焦った。焦るほど、ますます

心地よく音符が響くように近づくこの香りは増殖し続けるのだから、更に

焦る。

 自分の右隣に、厚化粧の女性が立っている。彼女ではない。左隣に、中年

の男性がこの狭い中新聞を無理やり読んでいる。彼でもない。後ろに、感じ

のよい若い女性がウォークマンを耳につけてつり革を持っている。彼女でも

ない。

 と、私が立っていたドア沿いとは反対のドア沿いに立つ、1人の女性が目に

飛び込んできた。彼女は、私に背を向けて、一心に窓の外を見ているような

風だ。

 長めの髪をきりっと結んで、知的に見えたその女性がこの香りの持ち主だと、

なぜ私は分かったのだろう?2、3mは離れて立っている、しかも私の周りには

見るからに濃い匂いを持ちそうな人々がいるのにもかかわらず。

 99%、彼女に違いない、と思った。香水・・・・・・?違う、人工的な香りではない。

花?野の花?いや、そんな陳腐な表現では表せない、奥の深い香り。

 清潔で、爽やかで、とにかく私にとって応えられないほど極上のいい香りだった。

 残りの1%を確認するために、私は自分の目的の駅についたとき彼女がそこで

降りないのだと分かると、さり気なく近づいた。

 やはり、私の勘は当たった。 彼女だった、香りの主は。

 彼女の後ろにそっと立つ。長めの髪、と思った髪は、背中の中ぐらいまではらりと

伸び、健康的に艶やかに光っていた。

 髪の匂い?いや、違う。違う違う。

 何故?何故他の人間は、このいい香りに気づいていないような表情で普通に

していられるのだろうか?私のように、うっとりとしたある意味情けない表情を

していないのだろうか?不思議だった。

 ドアが開き、私はホームに降りたとたん眩暈がした。自分の脳内、身体が心地よい

ものに遭遇したときに思わず目が眩む、その眩暈がし、よろよろと数歩先の

清涼飲料水の自動販売機に片手を付けた。

 背後で、ドアの閉まる音がして車掌が発車の合図をする。私は、ごくり、と

喉を鳴らしてゆっくりと振り返った。

 そこには、この衝撃を受けてすっかりまいってしまっている馬鹿な自分を、

じっと見ている女性がいた。あの、香りの女性だった。

 

 「少し危ない」

 「危ないだろうか?」

 「危ない。一歩間違えると、変質者だ・・・・・・、気をつけなければ、痴漢と

間違われるぞ」

 その日の昼食時、社員食堂で私は同僚のYに今朝の話をした。彼は、私が

心の奥底で危惧していることと同じ事を言った。危ない、と。

 私とYは、小さい2人がけのテーブルに顔を突き合せて小声で話し込んでいる。

私たち2人のような研究職の人間は作業着で、他にスーツを着た事務職の男性、

制服を着た女性職員と、この大手企業の昼食時を一手に抱える食堂は非常に

バラエティー豊かな色彩だ。

 「最近、仕事のストレスはないか?食事を摂っているか?彼女はまだできてない

のか?それらが影響しているのでは」

 「ストレスはない。食事も摂っている。」

 彼女のことは余計な詮索だ、という顔をして、私は口を引き結んだ。

  「香水の匂いじゃないのか。俺の昔の恋人は、ムスク系の香りを好んでつけて

いたが」

 「違う。あれは香水ではないんだ」

 私は否定した。そして目を遠くに向け、あの感覚をどうにか言葉に表そうとじっと

考えた。そして、思い浮かんだ。

 「まるで・・・・・・」

 「まるで?」

 「蜂が花の蜜に吸い寄せられるような、そんな感じだ」

 「ますますもって、危険だよ」

 Yは、呆れたような表情で、手元の塩鯖定食に手を付け始めた。

 

 次の日の朝、私は期待に胸を膨らませながらホームで電車を待っていた。

中学2年生の坊主が、憧れの女の子が乗る電車を待つ。そんなレベルと全く

一緒で、我ながら胸がくすぐったくなるような心持ちだ。

 到着した電車に乗り込むと、いきなり待ち焦がれた香りが私の鼻に飛び込んで

きた。彼女だ、彼女が乗っている。

 忙しく目を泳がせる。電車が駅を出発して最初のカーブに差し掛かり、周囲の

人もろとも斜めに身体が傾いたとき、またドア沿いにこちらに背を向けて立つ

あの女性を確認した。

 すみません・・・・・・、と、ほとんど聞き取れない謝罪を周囲に述べながら、私は

フラフラと人ごみを掻き分け彼女の後ろへ向かった。頭は真っ白だ。

 吸い寄せられるように。

 彼女の真後ろに立つ。そのとき、Yの声が頭に響いた。「痴漢に間違われるぞ」

 はっと我に返り、この自分の行動をどうしようか、と思ったとき、彼女がクルリと

振り向いた。結ばすに自然に垂らしたままのきれいな髪が、揺れた。

 動揺した私は、彼女の驚くべき表情を次の瞬間目にすることになる。

 私を見上げて、はにかんだように笑ったのである。

 

 蜂が云々・・・・・・は、あながち見当違いの表現ではなかった、と、今にして思う。

私は隣ですやすやと寝息をたて眠る女性に目をやった。

 彼女は、そう、あの香りの女性。美しき香りのひと。

 私たちは、何度か電車で遭遇するたびにあのように接近し、ついに恋人同士と

なった。

 驚いたことは、初めて電車以外できちんと会い、食事をした時の彼女の第一声だ。

 「電車であなたを見かけた時、なんて素敵な香りを身にまとった男性なんだろうって

思ったの」

 「僕が?」

 「そう・・・・・・。他の人が普通の表情でいること自体、信じられなかった。あんなにも

魅惑的で清潔な香りがする人が同じ車両に乗っているのに・・・・・・、皆どうして気が

付かないのか、不思議でたまらなかった」

 「僕は香水なんかはつけていないけれど・・・・・・」

 しかし私も、君の香りに気が付いていた、というと、え?香り?といぶかしげな顔をした。

 「私も、香水はあまりつけないのよ」

 申し訳なさそうにそう言ったが、すぐに、目の前の男性も自分と同じような体験

をしたのかもしれない、と気が付いたのか、口をつぐんだ。

 

 これは一体なんであろうか?

 香り、というよりは、お互いの動物としての匂いが、響きあったのだろうか?

 いうなれば、彼女と自分のフェロモンが恐ろしいくらいに共存してお互いを誘い

合ったのだろうか。こんなことが、この世界に起こりうるのだろうか?

 しかし、現実に起こった。私と彼女の上に、運命の神が降りたのだ。

 男女の運命・・・・・・それは、もしかしたら香りの、匂いの波長によってもたらされる

ものなのかもしれない。

 今回の不思議な体験から、私はそんなふうな哲学的な考えに至りさえした。

 さて、と、私は自分の枕を引き寄せた。もう眠ろう。彼女の、爽やかなこの上ない

極上の香りに包まれて。彼女が、私の香りに包まれて熟睡しているように。

 さあ喜んで、この美しき香りに身を任せよう。

 

  

Background photo by  Four seasons.

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