+++  上は何をする人ぞ  +++

 

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 その日の夜、私は趣味でもあるフランス刺繍をチクチクと刺していた。

刺しながら、また明日から1週間続く職場での事務仕事のことをチラと思い出して

憂鬱になったり、週の半ばに予定している旧友との食事会や、週末に予定して

いる同僚とのショッピングを考え心うきうきとしたりしていた。

 少し開けた窓から、心地よい風が部屋の中へ吹いてくる。こういう日曜日の夜も、

私は好きだ。

 と、上から物音がした。今日は、結局一日外出しなかったようだ。珍しい日も

あるものだ・・・・・・、と私は思う。

 「上は何をする人ぞ、か」

 と、私は口に出して、つい微笑んでしまった。芭蕉の、「秋深き 隣は何を

する人ぞ」が頭に浮かんだからだ。大学時代に俳句のゼミに属する友人が

いて、彼女と古典の俳句や近代俳句についてたまに語るときがあった。

 この有名な芭蕉の句は、1人病床につく芭蕉が隣家の灯りや物音に、思わず

人恋しく詠んだ句だと彼女から聞いた記憶がある。

 けれど、今私は、違う感覚でそれを捉えている。別に、私は寂しくなんかない。

人恋しくもない。ただ、‘何をしている人だろう、どんな人だろう’という、好奇心

のみの、‘上は何をする人ぞ’、だ。世界の小説で活躍する有名な探偵たちが、

とにかく周囲の出来事に対してまるで子供のように興味津々であるように。

 それと同じだ。

 

 そう、私は寂しくなんか、ないもの。人恋しくなんか、ないもの。

 チクチクと、また手元の刺繍に集中した。

 

 あれから1週間後の日曜日。とても天気のよい、まさに五月晴れの日だ。

 今日もさして予定のない私は、午前中からずっと刺繍をしていた。午前11時を

少し回って、目が疲れてきた私はコーヒーを入れ、一息つく。

 そろそろ、この陽気がもったいないので、着替えて街へ買い物にでもでかける

かな。地下街が新しく延長されて、たくさんの新しいショップが入ったらしい。

それをぶらりと見に行くのも、いいかな。そんなことを考えていた。

 と、カンカンカン、と階段を下りる音がし、ドアの音と、あの四駆のエンジン音が

した。なるべく意識しないようにと努めながら、流しで飲み終わったコーヒー

カップを洗う。

 気を緩めると、‘どこに行くのかな’などと考えてしまう、そうなると少しばかり

自分が恐ろしいので、なるべく無心を努める。

 濡れた手を拭いて部屋に戻って、私は窓の方へ向かった。窓を大きく開けて、

息を吸い込む。

 と、その時、突然目の前に大きな物体がバサリと落ちてきた。

 何事か?!としばらく身体が固まってしまったが、窓から下を見て落ちてきた物体を

確認し、少し考えた。

 それは、青いシーツに包まれた掛け布団。

 布団はさみが2つ周りに落ちているところを見ると、風で飛ばされてしまったらしい。

 で、誰の?

 どう考えても、今真上から落ちてきた。やはり、上の部屋の人のお布団?

 私はとりあえず外へ出て、布団をかかえ土をはらった。布団の下には、育てて

いた植物のプランターが倒れて、土や石灰石がばら撒かれていた。

 さて、どうするか。私は適度に暖かく膨らんだ掛け布団を抱えたまま、悩んだ。

先ほど彼は外出した。部屋には鍵がかかっているはずだ。

 玄関の前にでも置いておこうか?いや、それでは布団が汚れる。

 悩んだ末、彼が帰ってくるまで布団を預かっておくことにした。

 自分の部屋に、上の階の人の布団がある。とても奇妙な光景に、私はドキドキと

胸の鼓動が収まらない。困ったことになったなあ・・・・・・、と、口に出した。

 

   

 

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