+++ そんなはずはない +++

 

 朝からよく降る雨だった。

 梅雨の時期というのは、長い長いトンネルのように感じる。進めども進めども抜け出せない、

長いトンネル。

 「ネエ雨って好き?嫌い?」

 傘を目深に差して早歩きをする茉莉花の耳に、甘ったるい声が聞こえてきた。

 後ろを歩く若いカップルの会話だった。

 「俺?俺は好きさ。なんか、気持ちいいじゃん」

 「気持ちいい?変なヤツ。私は、嫌い。だって頭が痛くなるもん」

 私もよ・・・・・・と思わず呟く。茉莉花は、この自分の背後を歩く軽薄そうな若い子と自分の

‘偏頭痛’という共通点に、意味もなくひっそりと笑う。

 昔から、頭痛持ちだった。特に、雨の降りそうな時。

 目が開けられないほどの頭痛がすると、次の日は雨だ、ということが、茉莉花の今までの人生

で数え切れないほどの割合で起こった。

 

 朝目が覚めた時から頭痛がした。来たな・・・・・・とそっとため息をついて、ノロノロと着替える。

ブラをつけて、キャミソールを着る。今日はパンツスーツにするのでショートガードルをはき、

歯を磨きに洗面所に立った。

 携帯電話が鳴る。太陽にほえろのテーマ曲に、茉莉花は訳もなく腹を立てる。こんなのイヤ、

と言ったのに、省一が「俺からの着信はこれ以外だめだ」と強制的に設定してしまったのだ。

 「はい・・・・・・」

 「おっと頭痛警報。手短に話します」

 ハブラシに歯磨き粉をつけながら、茉莉花は肩と頬で携帯電話を挟む。

 「そうしてください」

 「ハハハ。今日、宮崎まで出張なんだ」

 「宮崎まで?随分遠いじゃない」

 茉莉花は驚いて歯磨きの手を止めた。ここ福岡から高速でも5、6時間はかかる。

 「急に決まってさ。今夜は帰りが夜12時近くなりそうだから」

 「あ、そう」

 「冷たいね」

 「頭痛なの」

 「そうだったな、そりゃ悪かった」

 省一の苦笑いが目に浮かぶ。茉莉花は少し微笑んで、今どんな格好?と尋ねる省一に、

赤のブラとパンティーにガーターベルト、とケロリと嘘をついた。

 「・・・・・・速攻で帰ってきます」

 「ふふ。待ってます」

 電話を切って、口をゆすぐ。大きく背伸びをして、着替えにとりかかった。

 

 やばいな・・・・・・頭痛い。茉莉花は朝より酷くなる頭痛に辟易していた。後ろを歩いてくるカップル

は、まだ他愛ない話を大声でわめいている。

 うるさい。と振り向いて言えたらどんなにか。このまま真っ直ぐ地下鉄に向かっても、今の時間は

家路を急ぐ人々で込み合うばかりだ。少し、休んで帰ろう。

 そう決めた茉莉花は、ふい、とわき道にそれるように左の路地に入り、1軒の喫茶店に立ち寄った。

 アイスカフェオレを注文して、椅子に深く背もたれた。待っている間も、1秒1秒頭痛がひどくなって

いくようだった。

 茉莉花は、店内の大きな窓ガラスから道行く人々を眺めた。色とりどりの傘がある。

 不思議ね・・・・・・。

 なぜかそう声に出してしまって口を閉じた。

 不思議ね、みんな、普通だわ・・・・・・。

 その時、店内に携帯電話の着信音が響き、茉莉花ははっとした。まるで、身体が一瞬マイナス50℃

の冷気によって冷やされたような、そんな‘冷え’を感じる。

 「ちょっと、何その着信音」

 「え?いいじゃん。ちょと待って・・・・・・あ、直樹?うん、今ミユキとアイス食べてるところ。どこでって?

えっと、あそこよ、1回来た事あるじゃん、駅の近くの喫茶店。うん、地下鉄の。うん。うん。うん、分かった、

ジャ、ネー。バイバイ。」

 「今の、直樹くんの着メロなんだ。でも今どき太陽にほえろなんて、オヤジくさいー」

 「えー?いいじゃん、かっこいいやん。私好き」

 クスクスクスクス、と楽しげに笑う若い女の子同士を、茉莉花は目の端で見た。

 頭が痛い・・・・・・

 テーブルに肘をついて、顔をおおった。ああ、即頭部が痛いわ。まるで鈍器で殴られているかのよう。

かのよう、じゃなくって、いっそ本当に鈍器で殴られてしまいたい。頭を叩いて、割って、粉々にして、

海で洗って、省一のこともなかったことにして、また私の頭を形成して欲しい。

 誰か、私の頭を割って。めちゃくちゃに、割って。

 

 アイスカフェオレを持ってきた店員が、小さな声で大丈夫ですか?とささやいた。茉莉花は顔を、

ほとんどテーブルに突っ伏さんばかりにしていた。はっと気がつき、身体を起こした。

 ええ、大丈夫です、少し頭痛がするだけ。

 お薬がありますよ?

 親切な店員はそう優しげに言った。しかし茉莉花は頭痛薬は常に持ち歩いている。そう伝え、

ありがとう、と微笑んだ。

 ああ、危なかった。脂汗を額に感じ、彼女が息を吸いこんだ時、バッグの中の携帯が鳴った。

 太陽にほえろのテーマ曲。

 文字通り、茉莉花は「ギクリ」とした。ギ・ク・リ、と1文字ずつ、彼女の心臓に突き刺さったようだった。

 

 そんなはずはない。そんなはずはない。そんなはずはない。

 私の携帯が、省一の着信音を鳴らすはずはない。

 そんなはずはない、そんなはずはない、そんなはずはない。

 茉莉花の頭の中を、割れるような音とともに、1年前の省一の最後の言葉が甦った。

 ‘・・・・・・速攻帰ってきます’

 同時に、病院で彼女の目の前で起こった光景、潰れた省一の車、葬儀の光景が、フラッシュバック

のように茉莉花の頭をよぎった。

 割れるわ。頭が割れる。

 

 震える手で、バッグから携帯を取り出した。まるで、夢遊病者のように携帯を目の前に持つ。

 ピッっと、通話ボタンを押す。

 

 「ハイハイなーに?うん、うん、そうだって。ミユキと一緒だって言ったじゃん。え?何?よく聞こえない

けど?! あ、切れた」

 「また直樹君?」

 「うん。いちいちうるせーっての。おまけに電波悪いところからかけてるし。もー、ムカツク」

 茉莉花は、ぼんやりと手もとの電話を見つめた。誰からもかかってきていなかった携帯電話の画面は、

むなしくオレンジ色に光って、すぐに消えた。

 

 「ネエ、雨って好き?嫌い?」

 先ほどの、若い子の甲高い声が茉莉花の耳に甦る。

 私はねえ、雨は嫌いよ。梅雨は大嫌い。頭が痛いの。本当に痛いの。

 そして彼女は呟いた。

 「いっそ、頭を叩いて、割って、粉々にして、海で洗って、省一のこともなかったことにして・・・・・・」

 

 

      

Background photo by m-style

Copyright  kue All rights reserved.
Never reproduce or republicate without written permission.

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送