+++ マイ・ガラス +++

 

 私はマイ・ガラスを持っている。

 と、言うと、たいていの人が「?」という顔をして首をかしげる。そうすると、私は、

これなんですと、バッグからそれを取り出して見せる、というのがお決まりのように

なってしまった。

 硝子細工のよくできた小物。小さくて、直径2cmほどの大きさだが、驚くほど

精巧にできている。それは、カメラの形をしていた。

 カメラのミニチュアおもちゃが、そのまま無色透明のガラスでできている。

 「よくできてるわね、これ。すごくお値段が高そう。いくらぐらいしたの?どこの

アーティストの作品?」

 質問は決まってこうくる。仕事柄接する年齢層の女性は、どうしてこうも即物的

なのだろうか。うんざりしながらも、

 「プライスレスなんですよ。それに、誰の作品かも分かりません」

 と答える私。

 「だって、私はこれを握って母親から産まれてきたんです」

 

 「ありがとうございました、またお越し下さいませ」

 私の先程の言葉を聞いたとたん、急にもぞもぞと落ちつかなくなった今日のその客は、

とりあえず、という感じで最初から手に取っていた小さ目の飾り時計に決め、支払いをし、

急いで店を出た。

 私はぼんやりと、手もとのショーケースの中を整理しその鍵を閉めた。

 「あれ?先程のお客様、もう帰ったの?」

 主任がすっとんきょうな声で、壁1枚隔てた事務所から出てきた。ネクタイが少し

曲がっている。

 「ええ。これを見せてお話したら、急にいそいそと。でも一つ買ってくださいましたよ」

 私は、そのネクタイがなんとなく気になりながら姿勢を正し主任の顔を見た。

 主任は、呆れかけた顔をすぐに笑いに変えて、私の持っている小さな小さなカメラに

一瞬視線を合わせた。

 「出た、藤堂君お得意のマイ・ガラス戦法だな」

 「そんなつもりじゃないんですが・・・・・・」

 「分かってるって。君は純粋にお見せしてるんだろ。その不思議なガラスを。でも

そのイワレがすごいからなあ」

 ちょっと頭をかいて、主任は何気なく店内を歩き始めた。私は、そろそろ閉店時間が

近づいてきて、パンプスの足が疲れてきたために背後の壁にそっと体を寄せた。

 主任は、小さなこの店内で、何かを考えるように下を向いてゆっくりと歩いている。

 「しかし、藤堂君が言うその話が本当だとしたら」

 「本当です」

 「うん、分かった、君の母親の胎内でこのガラスは作られたということになるな。結石

じゃないが、何かの物質が胎内で偶然固まって、また偶然君がそれを握った」

 そこまで言って彼は急に顔を上げ、首を振る。

 「いや、そんなことはありえない。絶対に。水木君も、柳瀬君も、大迫社長まで君の

その話は何かの冗談だと思っているよ。社長に至っては、君の歓迎会でその話を聞いた後

僕に、‘彼女は実に商売のセンスがある’と言っていたぐらいだ」

 「・・・・・・はあ」

もうやはり、何を言っても無駄だと、私は相手にしないことにした。店内のガラス製品を美しく

見せる為に照明をオレンジ色にほの暗くしているので、まだ何かしゃべっている主任の顔は

オレンジ色に染まっていた。それにしても、社長にこのガラスが客を引きつけるための

小道具だと思われていたことは、心外だった。

 

 本当に、私はこれを握って産まれてきたのだ。最初に発見したのは、父親だった。

 新生児室で、同時間帯に産まれた赤ん坊たちと並べられてしきりに泣いている私を、

父は窓越しに幸福の気持ちで覗いていたらしい。

すると、両手を頭の上にあげて大泣きしている私の手に、何かキラリと光るものがあるのに

気付いた。

 そのときは、窓の光で何かが反射したのだろう、と、父は不思議に思いながらも病院を

後にした。

 次の日、仕事を終えた父が病室を見舞うと、母が奇妙な顔をして父にこう告げたという。

 「この子、これをずっと握っているのよ」

 それが、この小さな小さなカメラの硝子細工。父と母はその時、顔を見合わせて何故か

笑い合ったと聞いた。

 不思議だけれど、何かこの娘を生涯守ってくれる宝なのではないか。そう2人同時に

感じたらしい。

 けれど、そのガラスは私の両親を守ってはくれなかった。2人は、私が高校を卒業

する頃、事故であっさりと死んでしまった。その話を、繰り返し繰り返し聞かせてくれた

思い出を残して。

 

 お店のシャッターを閉め、私はふと上を見上げた。‘Seeing is believing’。

黒地にオリーブ色の看板が目に入った。私の勤める輸入雑貨点Seeing is believingは、

主に硝子製品を扱っている。一代で都内に3つの支店を作った大迫社長は、56歳の壮年

だけれども、私から見てもとても水準が高く新しい感覚で商売をしているように思える。

 この店名も、「百聞は一見にしかず」という意味なのだから、まいりました、という感じだ。

 オフィス街の一角にあるこの小さな構えの店を後にして、私は地下鉄へと向かった。

 一人の部屋へ戻るのは、特に寂しいとは思わない。犬が帰巣本能を発揮させるように、

私も毎日、こうやってほぼ無意識に家路を急ぐ。

 ふと、ホームに並ぶ二つ隣りの列に目をやった。

 彼がいた。

 コートの襟を少し立てて、ポケットに手を突っ込んでいる。鞄は脇に抱え、寒さを我慢

するように真っ直ぐに前を向いている。初めて見た時から、私の心臓は高鳴った。

 いつも何かを考え込んでいるような表情に、ひどく魅力を感じた。

 朝は私が乗る3つ後の駅から乗ってくる。結婚指輪はなし。歳は、多分私と同じくらいか、

少し上。

 帰りの地下鉄が一緒になるなんてめったにないので、私はじわりと汗がにじむほど緊張

してしまった。

 電車が来る。人々の波が入口に向かう。

 

 今日の彼は、これでおしまい。もう目の届かないところへ行ってしまった。

 この世の中で自分たった一人だと思っていた私の、唯一の生きている証拠のような存在が

彼だった。けれど・・・・・・。

 その存在は、決して現実のもとなって私の目の前に現われて話しかけてくれることはない、

ということもよく分かっていた。私はつり革につかまりながら、バッグの中にあるあのガラスを

何故か思い浮かべていた。

 

 主任が商用で出かけていった午後3時、外は薄曇で今にも雨が降りそうなのか、まるで

5時過ぎの夕方のようになっていた。

 一人きりとなった私は、店内に流れているクラシックをなんとなく聞きながらショーケースを

拭いて回ることにした。

 その時店のドアが開き、誰かが入ってきた気配があった。

 「いらっしゃいませ」

 そういって振り向いた私は、愕然とした。あの、地下鉄の、彼が、そこに立っていた。

 「・・・・・・」

 二の句が告げられなくて、私はただ彼を凝視した。いつものスーツ姿。いつものコート。

いつもの、美しい目。

 「すみませんが、お尋ねします。」

 予想どおりの低く穏やかな声で、彼は私に近づいてきた。私が卒倒しそうなほど驚いて

いることに、ちっとも気付いていないようだ。それよりも、何か思いつめて切羽詰っている、

そんな表情だった。

 その顔を見て少し冷静になった私は、とにかく瞬きをして気持ちを落ち着かせようと

200倍速で頭を働かせた。

 「はい、どのようなことでございますか?」

 ああ、普通にしゃべっていますように・・・・・・。

 「実は、探し物をしていまして。こちらでしたら、何か分かるかもと思ったものですから」

 更に私の方へ一歩進んで、彼は古ぼけた雑誌を取り出した。今まで雑誌を持っていた

ことすら気付かなかったが、とにかくレジ近くのカウンター変わりにしているショーケースの

ほうへ彼を案内した。

 その雑誌は、60年代か70年代ほどの古いもので、‘月刊 工芸’というタイトルだった。

 彼が、大きな手でその真ん中辺りのページをめくった。

 「この硝子細工なのですが。‘スタナーのカメラ’と呼ばれているんですが、当時無名に

近いチェコの職人が作ったものだそうです。」

 見開きの右端に、小さく紹介されている硝子細工を指差しながら、彼は続けた。

 「これを探しています。当時でも手に入りにくいものだったらしいので、今ではもっと

難しいかとも思うのですが、わけあってどうしても欲しいのです。調べていただけませんか?」

 彼が、じっと私を見ている雰囲気が分かった。目を丸くして、ただ雑誌を見入っている私を、

変だと思っているに違いない。事実、私は彼が店に入ってきてからのショックの連続に

追い討ちをかけるようなこの極めつけをくらって、思考回路がストップしていた。

 「あの・・・・・・」

 余りに私がほうけているので、彼は遠慮がちに声をかけてきた。私はグっと彼の方へ

顔を上げた。

 「これなら、私持ってます。絶対、本物です」

 

 「きっと喜ぶ。親父は、絶対に覚えていると思うんだ」

 巨大な病棟が立ち並ぶはざまの緑の小道を、私と彼、曽我さんは歩いていた。寒さも

今日は落ちついて、小春日和の日差しが眩しかった。

 「だといいですね」

 そう答えた私を曽我さんはちょっと見て、しばらく黙った。

 「・・・・・・休みの日に、こんなことを頼んで申し訳ない」

 私は微笑んで、隣りの彼を見上げた。3日前までは、死んでも想像できない光景。

私の隣りに、あの彼が並んで歩いている。スーツ姿しか見たことのない彼だったが、

ジーンズにジャケットというラフな格好も爽やかだ。

 「しかし驚いた。あの硝子細工を持っていた人が勤める店に、尋ねて行ったということが。

偶然で片付けられるかな」

 この病院に入院している曽我さんのお父さんは、実は私を取り上げた産婦人科医

だった。「曽我産婦人科」。

 私が産まれる12時間前、4歳の曽我少年はもうすぐ出かけるために玄関に下げて

あった父親の白衣の胸ポケットに、その父親のコレクション箱から取り出した‘スタナーの

カメラ’を、いたずらで隠したのだ。

 曽我さんが最初店に来てこの話しをし、念のためにと告げたその日の西暦も、日付も、

曽我医院の当時の場所も、何一つとして私の母親の日記に書いてあったことと一致した。

 白衣の胸ポケットに入ったままの‘スタナーのカメラ’は、いつのまにか産まれたばかりの

私の手元に落ち、後生大事に私が握っている。

 「お父さん、カメラがなくなったって知ったとき怒りました?」

 中庭の公園を横切り、病棟の入口に差し掛かったとき、私はそう聞いた。曽我さんは

一瞬ハっとしたように見えたが、静かに微笑んで、しばらく見つかるまで院内をくまなく

探させられたよ、と言った。

 「もう何十年もそのことは言わなかったのに、今になって‘スタナー’を繰り返す。

やっぱり、大事にしていたんだな」

 

 曽我さんのお父さん、私を取り上げてくれた曽我元院長は、痴呆症にかかっていた。

 明るい病室に、曽我元院長の白いパジャマが目にしみた。真っ白になった髪の毛に

寝グセを少しつけて、目はぼんやりと焦点が定まっていない。

 しかし私が‘スタナーのカメラ’を差し出すと、焦点のあっていなかった目がいきなり

正気に戻ったように見えた。

 「スタナーのカメラじゃないか。スタナーだよ。宗大、どこで見つけたんだ。手に入れるのに

5年かかった品だよ」

 「この彼女が、ずっと持っていてくれたんだ。彼女、親父がとりあげたんだよ」

 その曽我さんの言葉に一瞬反応したようだったが、私の顔をぼんやりと見ただけでまた

手元の硝子細工を子供のような顔で見つめ始めた。

 懐かしそうに、慈しむように、それを見つめている。

 時には高く目の上にあげて、窓から入る日差しに透かしてみたりしている。キラっと

反射するその美しい作品を、私も

思わずうっとりと眺めていた。曽我さんも、黙って父親の恍惚の顔を見守っていた。

 私はその‘スタナーのカメラ’をしばらく貸す約束をして、病院の出口でまだ残る曽我さんと

別れた。もともと私の物ではないのでお返しする、と言うのだが、彼は聞き入れなかった。

 今は藤堂さんのものだから気にしないで、と言った。

 

 こうして夢のような、でも現実の事柄が私の身に起き、またいつもの平凡な日々に戻った。

あの日から、地下鉄で曽我さんを一度も見ていない。この近くの会社で働いているはず

なのに、道でもすれ違わない。

 私は仕事中でも、ぼうっと入口のドア越しに外を歩く人々を眺めるクセがついてしまった。

 「暇なら、これ計算しといて」

 そう主任に言われて朝渡された売上一覧表の細かい計算に没頭するしかない、と、

私は無理矢理頭のスイッチを切り替えた。

 と、ドアが開いた。

 顔を上げると、曽我さんが立っていた。両手をズボンのポケットに突っ込んで、心なしか

微笑んでいた。

 「こんにちは。この前はどうもありがとう」

 「いいえ・・・・・・お役にたてたかどうか」

 寂しげに微笑んだ彼が近づいてきた。今日はコートを着ていない。仕事の途中で寄って

くれたのだろう。私は久しぶりに見た彼の姿に、ほとんど感動していた。

 何も言わずに店内を横切り、曽我さんは黙って私の前に立った。

 そして、スーツのポケットから小さな袋に入った‘スタナーのカメラ’を取り出して、

私に手渡しこう言った。

 「親父、1週間前に死んだんだ。」

 私は余りに突然の言葉に、何も言えずただ彼を見つめた。少し疲れた顔をして、

彼はそんな私を優しく見つめ返した。

 「親父が死ぬ前に、藤堂さんに出会えてよかったよ。親父も心残りなく逝けたと思う」

 「何と言っていいか」

 その言葉を、曽我さんは首を振って遮った。

 私の目に急に熱いものがこみあげきた。あのガラスを通してつながった、25年前と現在。

 私をこの世に導き出してくれた人物と、その息子。両親の、このガラスが娘を守る宝物

だと純粋に思ってくれた、その気持ち。

 

 私は胸が痛いほどに苦しくなって、口を押さえて嗚咽した。

 気がつくと、曽我さんの大きな手が私の肩をそっと撫でていた。そして、顔を上げることが

できないままでいる私の耳に、彼の低くて優しい声が聞こえた。

 「明日でも、夜食事をしよう。お互いの、今日までのことを色々話さないか」

 ポタポタとショーケースに落ちる私の涙が、‘スタナーのカメラ’の上にも落ちた。

 院長がいた病室で見たように、それはキラリと一瞬、暖かく光った。

 

     

Background photo by MIYUKI PHOTO.

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