+++ 森の公園で  +++

 

 今日こそは彼と言い争いをするまい、今日こそは穏やかにランチを・・・・・・。

そう自分に言い聞かせながらこの公園へ向かった翔子だったが、やはりものの

数分もしないうちに2人は軽く言い争いを始めた。

 「要するに、お前に相談もせずに決めたことに腹を立てているのだろう?」

 Yシャツの袖をまくりながら耕三はため息をついた。彼の、いついかなるときも

声をできるだけ抑えてしゃべろうとする努力は評価できる、と、冷静に頭の中で

分析しつつ、翔子は手元のランチボックスに視線を落とした。食欲などとうに

無くしている。

 「そういう訳ではないの、と、何度言えば分かってもらえるの?確かに相談を

事前にして欲しかったことは嘘ではない。長い付き合いの彼氏が転職するんだから。

でもね」

 耕三の方を振り仰ぐと、恐らく彼も食欲を無くしているのであろう、その進まない

サンドイッチの食べかけを眺めている。

 「私は心配なのよ。全く今と職種が違うでしょう?何もかも自分でやらなければ

ならない世界よ。大丈夫なのかって、不安になって止めることがどうしてそんなに

悪いのよ」

 「俺から言わせれば、なぜ俺を信じないってことだよ」

 「・・・・・・」

 思わず翔子が黙り込んでしまったので、耕三は少し優しい表情を取り戻して

ベンチの背もたれに深く背をあずけ、彼女の顔を見やった。

 「・・・・・・分かってるんだ、翔子が心配して言ってくれているっていうことは。

よく分かっているよ。でも、この仕事は俺の小さい頃からの夢なんだよ。その夢が

あと一歩で実現する。今の会社でやってきたことは、それに対するステップの

1つだ、糧の1つだと思える自分がいるんだ。とても割り切っているだろう?

そう、俺自身は非常に割り切っているんだ」

 「でも私は割り切れないわ。あなた、今の安定した収入と立場をあえて捨てて

荒波の中に飛び込むことになるのよ。私も1度転職を経験したから分かるの、

とても労力と精神力がいるんだから」

 「結局、翔子が気になることは収入か?」

 その耕三の一言にひどく頭にきた翔子は、荒い音をたててランチボックスの

蓋を閉めた。

 食べかけのサンドイッチを一口で口に放り込み、缶コーヒーを一気に飲み干し

た耕三は立ち上がった。背もたれにかけていたスーツの上着を手に取る。緩めて

いたネクタイを締め直している彼に向かって、まだ座ってうつむいたままの翔子は

小さいけれどしっかりした口調でこう言った。

 「そうよ。女は大抵そう、現実的なのよ。収入が気になるのは当然のこと」

 ほとんど意地になってそう呟く翔子の心の中は、罪悪感で膨れ上がった。

売り言葉に買い言葉。この繰り返し。

 ちら、と翔子を見下ろして、‘また連絡する’とだけ言った耕三は会社に帰って

行った。

 

 張り詰めていた緊張が一気に解けたように、翔子は大きいため息をついた。

ふと、小道を挟んだそう遠くない斜め前のベンチに座っている初老の女性に気が

つく。レース編みのようなものを一心に編んでいる。

 視線を女性の奥に続く森の木々に移して、また大きいため息をついた。彼と

こんな風に、会えば言い争いになる日々がどれぐらい続いているだろう。転職を

決めたと打ち明けられてからだから、3ヵ月間ぐらいだろうか。

 こんなことではいけない・・・・・・、と焦れば焦るほど、先ほどのような堂々巡りの

口喧嘩を続ける自分と耕三2人して、先の見えないトンネルに入ってしまったような

感覚を翔子は常に感じている。

 

 森の木々は、木漏れ日に照らされて緑の色を一層濃くしていた。時折、鳥の

声が鳴く。木々の合間に、そのまた奥の方にある芝生の広い広場が見えた。

そこでは幼い子供を遊ばせる母親たちや、ボールを使って身体を動かすことに

専念しているOLたちの嬌声で溢れていた。

 こんなにものどかで空気の澄んだ空間に、こんなにも淀んだ空気をしょっている

人間は自分しかいない。そう翔子は悲しく思いながら、立ち上がった。

 制服のスカートをはたいて、ランチボックスを入れたバッグを手に持った。公園の

出口へと続く階段を下りる。

 このフィス街に突如現れたような森林公園は、S市が‘日本のセントラルパーク’と

銘打って自慢の一つにしているもので朝はジョギングやウォーキングの中高年、昼は

ビルの閉塞感から逃れたい一心の会社員たち、夕方は学生や散歩の人々で常に

賑わっている。

 セントラルパーク、とまでは言いすぎだけれど、と思いながらも翔子はとてもこの公園を

気に入っていて、気がつけばここに足を向けている。それは耕三も同じことで、そもそも

2人の出会いは5年ほど前のこの公園だ。以来、天気のいい日はここで落ち合って

昼食を一緒に食べている。2人が座るベンチは何となくいつも同じ場所のベンチで、

まるで自分たちの特等席のようだとお互い笑ったのはいつのことだろうか。

 パンプスの音を響かせながら、翔子は耕三の笑い顔をしばらく見ていないことに

気がついた。彼の爽やかな笑顔に惹かれて恋を始めた自分なのに、皮肉にもその

笑顔を失わせてしまっている。

 また、大きなため息をついた翔子は、階段を下りる足をほとんど引きずるようにして

会社へ戻った。

 

 次の日も、いい天気だった。朝のうちに、‘またいつもの所で昼食を’と耕三にメールを

した翔子は返信がないことを気にしつつも、あの定位置のベンチで1人座っていた。

 ・・・・・・どれほど待っただろうか、腕時計を見ると午後12時50分だった。そろそろ

昼休みも終わる。

 耕三は、来なかった。付き合い始めてから今まで、こんなことは初めてだ。じっと

ベンチに座り握り締めた手を膝に乗せていた翔子の耳に、奥の芝生広場から聞こえて

くる人々の楽しげな声が響いた。鳥のさえずりや、5月の爽やかな風が木々をざわめか

せる音も。

 翔子は本当にショックを受けた。あの耕三が約束を守らない、ということはよほどの

ことなのだということを、彼女はよく知っているからだ。

 もう駄目なのかも知れない。私たちは、駄目なのかも知れない。

 ぼんやりと目を宙に泳がせると、また斜め前のベンチに先日見かけた女性が座っていて、

相変わらずレース編みを編んでいる。何を作っているのだろうか、と、あまりにショックを

受けた翔子は現実逃避のように女性の手元に注目した。白い糸で、ケープだろうか、

膝掛けだろうか、ショールだろうか。そんなようなものを編んでいる。白髪が目立つ髪を、

けれど上品に結わえたその老婦人は、趣味のいいワンピースにカーディガンを着ていた。

 ぼんやりとまた視線を宙に這わせた翔子は、力なく立ち上がって公園を後にした。

 

 数日、翔子は耕三に連絡を取らなかった。耕三からも、一切連絡はない。他のことを

考えようとするのだけれど、通勤電車の中で、仕事中のふとした合間に、夜ベッドの中

に入ってから、翔子の考えることといえば‘どうしてこんな風になったのだろう’ということ

のみだ。耕三の転職に関して、様々な視点から自分なりに分析したり、耕三に発した

言葉の数々を思い出し激しく後悔したり、しかし耕三のやり方や態度にも問題があるの

では、と彼に怒りを向けてみたり、かと思うと彼の優しい笑顔や力強い手のぬくもりを

しきりに思い出し胸が張り裂けそうになったり。

 翔子は、悶々とした日々を過ごしていた。

 その鬱々感を払拭したい、と、1週間ぶりぐらいにまたあの公園へ出かけてみた。

いつものいい天気。いつものあのベンチ。手元のランチボックスを開けて、食べ始める。

 ふと、斜め前の女性に気がついた。今日もいた、と、なぜか翔子は気になる。

 翔子の視線を感じたのか、その女性が急に手元の編み物から目を上げた。

 ドキリ、とした翔子が、とりあえずぎこちなく会釈をすると、その女性はふと懐かしい

ような微笑をして、会釈を返した。

 「そちらへ座ってもいいかしら」

 突然、その女性が翔子に声をかけたものだから、彼女は驚いて目を丸くした。

 「はい、どうぞ」

 そう慌てて言って、自分の隣に置いていたバッグをよけスペースを作る。

 立ち上がって近づいてきた女性は、思ったより小柄だった。

 腰掛けて、黙ってニコリ、とした女性がこう言った。

 「1週間前、あなたが待っていた相手はきちんと来ましたよ」

 「え?」

 思わず聞き返す。

 「あなたが帰ったほんの数分後に、息せき切って彼は走ってきたの。あなたの

姿がないことを確認すると、とても肩を落として去っていったわ。本当に落ち込んで

いたわね」

 そうだったのか・・・・・・、と、翔子は行き違いを残念に思った。耕三は、来てくれた

のだ。希望の光が目の前に広がったと同時に、隣の老婦人が自分たちを注目して

いたことに、急に気恥ずかしさを感じた。

 「いつも私たちの斜め前に座っていらっしゃいましたね。お恥ずかしい限りです」

 「いいえ、何も恥ずかしいことなんてないわよ」

 女性は、手元のレースに目線を落とし手を動かし始めた。動かしながら、また話し

始める。

 「こんなこと言ったら変に思われるかもしれませんけど、あなた方のことはもう数年も

前から知っていますよ。私もいつも同じベンチで午後を過ごしていましたから」

 「そうだったのですか。ご挨拶もせずに、すみません」

 翔子は素直に詫びた。耕三とここで過ごす時は、昼休みの50分弱、という限られた

時間ということもあっていつも彼しか見ていなかったような気がする。この女性にも

気がつかなかった。そして、また一方で、‘いつもあなたたちを見ていた’というような

内容の話しをする相手に不思議と不快感は感じない。

 それほど、この隣の女性は品格と温かな雰囲気を持っていたのだ。

 「いつも私たちうるさくしゃべって、ご迷惑じゃありませんでしたか?」

 「いいえ、ちっとも。とても仲が良くて若い2人っていいわね、と思っているの」

 仲が良くて・・・・・・。女性の言葉を頭で繰り返し、翔子は思わず暗い気持ちになる。

その翔子の表情を、女性は眼鏡ごしに見た。そして、微笑んで続けた。

 「若い、ということは、それだけ人生経験が少ない、ということよね。それは思い切りの

よさ、怖いもの知らずという若さの特権でもあるけれど、時に‘自分が’というエゴを前面に

出してしまいがちね。私もそうだった」

 動かしていた手をふと止めて、女性は遠い目をして前を見つめた。エゴ、と翔子は

口の中で呟く。

 「‘自分が’を少しだけ内にしまって相手に接すると、もちろん相手にもそうしてもらうの

だけれど、それはお互いを思いやるという行為になってとてもいい関係を築けるわね。

男女の中だけに言えることではないわね」

 自分を少し内にしまって・・・・・・。

 翔子は、ここのところ耕三に対してどれほど彼の身になって考えてやったことがあった

だろうか、と冷たい川に落とされる思いがした。

 言葉では、「あなたを心配して」などと言ってはいるが、結局のところ‘自分が’

寂しいから、転職のために地理的にもまた精神的にも少し遠い場所へ行ってしまう彼に

‘自分が’置いていかれそうであんなにも難色を示したのだ、と今更ながら気がついた。

いや、とっくの昔に気がついていたのに、認めたくなかったのかもしれない。

 「・・・・・・ごめんなさいね、説教めいたことを言ってしまって。これだから年寄りは駄目

ね。ついついおせっかいで」

 女性が申し訳なさそうな顔で言う。翔子は慌てて首を振った。

 「そろそろお休み時間もなくなってきたのではないかしら?付き合わせてごめんなさい

ね」

 女性はもう一度翔子に謝った。翔子は今度は笑って首をふり、バッグを手に持つ。

 「あのう、失礼ですが、この場所以外でどこかお会いしたことがありますか?」

 翔子は、先ほどから不思議に感じていることを口にした。どこか、懐かしい。女性が

そんな表情を彼女にしてみせるたびに、翔子の方もそんな気がしてきた。

 「いいえ、ないわ。ここで会うだけよ。でも、私の方は勝手にあなたに、ちょっとだけ

思い入れがあるのよ」

 「え?」

 「私の娘に、なんとなく似ているの。だから、なんだか放っておけなくて」 

 「そうなんですか」

 「だから、放っておけないついでに言うけれど、あの彼、とても素敵な人じゃないの。

あなたのことを心から好きなのよ。私には分かるわ。だから、大事にしてあげて」

 思わず胸がじん、とした。そう、彼を大事にしなくては。今、人生の節目に立って

懸命に目標に向かって泳いでいる耕三を、私は大事にしてあげなくては。

 そう思うと居ても立ってもいられなくなって、今すぐにでも翔子は彼に会いたくなった。

早く今日一日の勤務を終え、彼に電話をし、そして会って、今までの無礼を詫びよう。

また私のことを愛してもらおう。

 そう思うことで心の底から勇気と元気が沸き、翔子は生き生きとしてきた。

 「ありがとうございます、色々と。また、お会いできますよね」

 立ち上がって会釈しながらそう女性に聞くと、笑って頷き斜め前のベンチを指差した。

 「ええ、あそこにいつも座っていますから」

 お互い微笑みあって再度会釈し、その場を去ろうとした翔子はふと思い出したように

足を止めた。なんとなく聞いてみたいことがあったのだ。

 「あの、私に似ているという娘さんはこの近所にでもお勤めですか?」

 「いいえ、彼女は死にました、10年前の震災で」

 あまりにさらりとその女性が言うので、翔子は一瞬身体が固まって声が出なかった。

 「震災で・・・・・・?」

 「ええ、夫も一緒に亡くしました。その後、神戸から自分の故郷であるこの町へ

越してきたのですよ」

 その重い単語の数々とは裏腹にとてもさっぱりした、そして清々しい表情で女性は

翔子を見た。その眼鏡の奥の目は、この森林の緑の美しさが反映しているかのような

澄み切った光をたたえている。

 「だからなおさら、あなたを応援したいのよ、娘が生きていたらちょうどあなたぐらいの

年齢でしょうねと思いながら」

 立ち尽くして、ベンチに座る女性の微笑を見つめる翔子の長い髪を、5月の風が

なびかせた。

 

 そしておもむろに、私、幸せにならないといけない、耕三も幸せにしないといけない。

そう強く思う。強く強く思いながら、込み上げてくる胸と喉の熱いものを必死でこらえた。

 

       

Background photo by   Take Five

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