+++眉間のしわ+++

 

 いつも眉根にしわを寄せている女性を知っている。 

 そんなにしわばかり寄せていたら、きっと顔に刻みついてしまう。せっかくの綺麗な顔なのに。

 他人事ながら、私は常にそう思っていた。 その私の危惧が、現実のものになろうとは・・・。

 

 気がついたのは、年があけて初出勤の日だった。お正月にちょっとダラダラとし過ぎたせいか、

心なしか重い身体を引きずり、私は地下鉄を乗り継いだ。ため息をつきながら。

 ロッカールームに向かうと、久しぶりに同僚たちと会うので最初こそ新鮮な気がしたが、3分も

たたないうちにもう年末の職場の延長、という感じで新鮮さが消えていった。

 そのやる気のなさでいっぱいのオフィスに、彼女の声が突然響き渡った。

 「どういうこと、それは?年末に、きちんと指示をしておいてはずだけど?」

 みな背筋がヒヤっとしたのか、一様に肩をすくめて恐る恐る声のした方を見た。と言っても、

誰の声だか火を見るより明らかだったが。

 「どうするの?会議は明日よ。」

 「はい、本当にすみません・・・」

 「もう一度聞くけれど、電話連絡まではしてるの?」

 「イイエ・・・」

 「じゃあ、先方には何一つ伺いが行っていないってわけ。」

 怒られているのは柏田さん。もう30代も半ばの営業マンだが、失敗が多いせいか彼女から

いつも注意されている印象がある。

 「・・・・・・」

 しばらく黙り込んだ彼女、商品開発科の野間部長は、ふいに立ちあがった。身長は柏田

さんよりも10cmぐらいは高い。

 微妙に、柏田さんがたじろいだのが見えて、私はほとほと彼が哀れに思えた。

 フロアをこっそり見まわすと、皆この成り行きを息を殺して見守っている。

 「あの、部長・・・・・・」

 「もういいわ。今から私が直接T代理店に交渉してくる。許されない失敗だから、これから

二度としないで。」

 スーツの上着を着て、ツカツカツカと野間部長がフロアを横切った。途中、課長の関谷さんと

何件か相談をし、書類を揃えてもらい、振りかえらずに出ていった。

 ほーっと、空気が一瞬で緩んだ。しかし皆慣れたもので、その3秒後にはいつもの活気のある

空気へと変わっていくのを見届けて、私はコンピューター入力をするために席に座った。

 「実夏ったら、ずっと突っ立っちゃって。」

 隣りのデスクの美奈子先輩が、おもしろそうに私をからかう。

 「だって先輩、やっぱりまだ野間部長の怒った声を聞くと、ドキってしますよ。」

 私は彼女の方を向いて、ちょっと弁解するように言う。

 「そうよね。野間部長って、バリバリだもんね。だいたいうちの会社って女性の管理職が多い

じゃない?でもその中でも群を抜くからね。頭は切れるは、超がつくほど美人だわ、気遣いも

一流。清潔潔癖。でもさ」

 そう言って、今まで画面を睨んでいた先輩は急に私の方へ椅子を回して顔をかがめた。

 「ねえ、野間部長、独身だけど、さっき聞いちゃったんだ。」

 「・・・・・・何ですか?」

 またか・・・・・・と半ば呆れながら、私は一応、頭を低くして調子を合わせる。

 「年末にね、駅前にラ・パルーラって高級スーパーがあるじゃない、そこに、12、3歳の

男の子と一緒に入っていったらしいのよ。」

 「甥っ子さんとかでしょう?」

 「どうだかねー。商品開発科の子は、子供がいるんだって力を込めて言ってるわよ。」

 「ちょっとそれ、無理あるんじゃないですかー?だって野間部長ってまだ若いですよ。」

 「20歳ぐらいで産んだんだったら、説明つくし。」

 「しかも出産をしたような体型、全然してませんけど。」

 「バカね!そこはほら。うちの商品よ。なんたって、歩くサンプルだから。」

 私はもう二の句が告げられなくなって、目を発注画面へ戻した。うちは下着メーカーで、

私は主に市内の各代理店からの注文を管理する事務職として、今年の春入社した。

 手先に集中して、ロングブラのC85を6本、と入力する。

 「・・・・・・ついに眉間のしわ、顔に刻み込まれちゃってるみたい。」

 私は思わず声に出してそう言った。こっそり美奈子先輩の方を盗み見ると、集中している

のか私のつぶやきは聞こえていなかったようで、一心不乱にキーを叩いていた。

 

 その週の土曜日、彼氏もいない私は一人ブラブラと街へ出かけた。

 お正月ムードも終わり、次なるイベント、バレンタインデーへ向けて街はディスプレイされて

いる。

 ドン、と私の肩に正面からきたカップルの女の子がぶつかった。

 あ、ごめんなさ〜い、クスクス。甘ったるい声で、振り向きもせず去っていく。ちょっとお、

どういうこと?私は虚しい一歩前の怒りで、ブーツをドタドタ言わせて横断歩道を渡る。

 私ももう23歳。厳しい就職戦線を戦った時点で、半分人生力尽きちゃったみたい。さして

興味がある職種でもないし、野間さんみたいにバリバリやるだけの能力は到底ないし・・・・・・。

 思わず野間部長の顔と眉間のしわを思いだし、私はため息をついた。よそう、お休みの時まで

会社のことを考えるのは・・・・・・。

 その時私は目を疑った。目の前から野間部長本人が歩いてくるではないか。幻想?目を大きく

瞬きしてみるが、間違いない、あのスラリとしたモデル並みの体型と長い髪、あの顔は彼女に

間違いない!

 どうしよう、挨拶しようかしら、でも向こうは何十人もいるデータ作業の職員なんか覚えていない

だろうし。

 その時、突然視界が真っ黒になり私はしりもちをついた。思いっきり動揺していた私は、野間

部長より前を歩いていた大きな男性と正面衝突をしてしまったらしい。

 「気をつけろ!」

 プロレスラーのようなその男は私を睨みつけるとさっさと行ってしまった。

 「だいじょうぶー?」

 立ちあがってお尻をはたいていると、男の子が一人てくてくとやってきた。中学生ぐらいだろうか、

声も太くて背も高い。

 「おねえちゃん、きをつけないとさー。こっちへおいで」

 彼は私の手を引っ張って、とりあえず横断歩道を渡りきらせてくれた。少し知的障害があるらしい、

ということは、一目で分かった。動きもしゃべりも、外見よりかなり幼く見える。

 「榊原さん、大丈夫?」

 声がした方がをびっくりして振りかえると、なんと。野間部長が苦笑いしながら立っている。

 え?どうして?私の名前を知ってるの?どうして・・・・・・。

 私がかなり動揺しているのが分かったのか、彼女は吹き出して笑った。

 「ぼんやりしてたでしょ。気をつけないとね。」

 野間部長が笑っている。呆然と、彼女を見上げた。そういえば、オフィスとどこか雰囲気が違う。

着ている服も、いつもは流行の形のスーツだけれど、今日はハイネックの白いセーターに黒い

パンツ、マフラーと手袋は淡いピンク色だ。

 そして私は、最も重要なことに気がついた。眉間にしわがないのだ。

 「あ、あの、お疲れ様です。こんな所でお会いするとは思っていなかったもので、驚いて。」

 私がアワアワしているのがおかしいのか、野間部長は更に吹き出して笑った。

 「そんなに緊張しなくていいのよ。私ってそんなに怖い?怪物でも見ているような顔よ。」

 「いえ、怪物だなんてそんな・・・・・・」

 「わーい、ねえちゃんは怪物、ねえちゃんは怪物!背がでかいもーん」

 「こらっ。調子に乗るなっ」

くしゃくしゃと、男の子の頭をなでた野間部長は、最高の笑顔で彼を見つめていた。

 「あ、あの、ねえちゃんって」

 「あ、こいつ?弟なの。去年は1年間施設にいたけど、今年から家に帰って来たのよ。

それ以来、ベッタリで困っちゃうのよね。」

 「弟さん・・・・・・。」

 私は美奈子先輩が言っていたうわさを思い出した。会社って、本当に口さがない人が多い所だ。

 「歳が離れてるからびっくりしたでしょう?母親がかなりの高齢出産したの。リスクが

大きかったけれど、やっぱり、できた命はそうそう、ね。」

 野間部長の腰まわりに手を回してまるで3歳児のように甘えてくる弟さん。その彼をいとおしそうに

見下ろす部長。

 私の野間部長に対するイメージは、ガラリと変わった。こうして社外で会うと、全くの普通の人。

私は今まで、彼女の何を見ていたんだろう?

 

 次の週、自宅から直接出先へ向かった野間部長はお昼を過ぎて戻ってきた。やっぱりオフィスでの

彼女はいつもと変わらず厳しく忙しく、テキパキと仕事をこなしている。

 半日留守にしただけで、彼女の指示を仰がないと進まない仕事を山のように抱えた部下たちが

入れ替わり立ち代り、彼女のデスク前に群がっていた。

 5時になっても仕事が残っていた私は残業をし、事務職員がほとんどいなくなったロッカールームで

帰り支度をして、エレベーターを待った。

 上から降りてきたエレベーターが止ると、中から書類の束を持った野間部長が降りてきた。

 「あら!」

 「あ!」

 「昨日は偶然だったわネエ。」

 野間部長はまた私に笑いかけてくれた。ちょっと挨拶をしておこうと、エレベーターの‘開’ボタン

から指を外した。

 「こちらこそ、弟さんには助けていただいて。ご迷惑お掛けしました。」

 「迷惑なんてかけてないわよ。昼間は気がつかなくてごめんなさいね、猪突猛進だったのよ。」

 「え〜、野間さんでも、そういう時があるんですか?」

 思わず親近感がわいて、つい軽口を叩いてしまった。でも一向に気を悪くした風でもない彼女は、

壁に背をもたれてリラックスする姿勢をとった。

 「あら、また。人を怪物みたいに。私だって忙しい時はあせるのよ。」

 「あの・・・・・・」

 対当に話してくれているのをいいことに、私はずっと聞きたかったことを口に出した。

 「どうして私の名前を覚えていてくれたんですか?事務職員はたくさんいるのに。」 

 私の質問に、彼女は考えることなくこう答えた。

 「あなたたちがいないと、この会社は回っていかないわ。それは誰が抜けても同じことだけれどね。

あなたたちのような縁の下の力持ちさんを、いつも感謝する気持ちを持たなきゃいけないから、私は。

 普段は、それこそ猪突猛進だからオフィスではねぎらいも出来ないけれど。名前は、全員覚えて

いるわよ。」

 私は心底驚いた。こんなこと言ってくれる上司は、今まで一人もいなかった。

 やりがいのないと思っていた自分の仕事が、少しだけほこりを持てる仕事のような気がしてくる。

私って、全く単純だけど、こんな上司の一言で気分が180度変わるということを今発見したのだ。

 「あ、あの!」

 挨拶をして分かれた後、去っていく野間部長に私は思わず声をかけた。

 ん?という顔をして振り向いた彼女に、私はこう言った。

 「明日から、またがんばります。」

 次の瞬間の部長の顔は、この世のものとは思えないほど美しかった。にっこりと微笑んだその

顔からは、眉間のしわなど1本も見当たらなかった。

 

      


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