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-飛行機・5−
高速に乗った車は、猛スピードで何台もの車を抜いていく。12時ジャスト出発の飛行機に、間に合うように行って
ください。それだけを言った優妃に、赤野は多くを尋ねなかった。
2人とも、黙りこくっている。息苦しいまでの緊張感を、また優妃は感じていた。
高速を降り、やがて、空港に近づいた。
「赤野さん、ここで止めてください」
突然優妃が大きな声で言う。河川沿いの、少し車を止めるスペースがある場所を優妃は指差した。
赤野はチラリと優妃を見、黙って車を寄せた。
「空港まで行かなくていいのか?」
「・・・・・・、ここでいいです」
意気地のない声だと、我ながら優妃は感じた。やはり、行く勇気がない。ここなら飛び立つ飛行機が、遠目でも
見ることができるだろう。ここで精一杯。ここまでで、精一杯。
車から降りた2人は河川を見渡せる柵の近くまで歩いていった。残暑の日差しが、照りつける。空は抜けるような
青だ。
赤野は、優妃の言葉をじっと待った。優妃は、肩にかけていたバッグから、封筒を取り出した。そして、うつむいた
まま口を開く。
「12時の飛行機には、弟が乗っているんです。人を殺しかけて、服役して、出所して。それからずっと行方知れず
だった弟から、手紙が来たんです。東北で出会った貿易関係の社長に見こまれて、スペインの支社で修行をする
ってありました」
赤野は、何も言わない。ただ、河川の水面を見ていた。優妃はまるで自分に言い聞かせるように、ぎゅっと柵を
握り締めて続けた。
「どこまで本当か、分かりません。その社長というのも、怪しいものです。純真で、人から騙されやすい子だった
から、もしかしたらまた悪い世界に足を踏み入れているのかもしれない。でも、もう私にはどうしようもない。あの子
の人生だから」
優妃が手もとの封筒から、通帳と印鑑を取り出した。
「それは?」
赤野が初めて口を開いた。優妃は顔を上げて、横に立っている赤野の顔を見上げた。逆光で、彼の表情があまり
見えなかった。眩しげに、優妃は目を細める。
「類、弟の名前の通帳が入ってて。借金を残したまま消えたんですけど、それを祖母が払ってくれた。誰かが立て
替えてくれたって分かってるんでしょうね、これで埋め合わせをしてくれって書いてあった。入っている金額は、祖母が
立て替えてくれた分に比べると半分ほどなんですけど・・・・・・」
「そうか」
「私が陸上を続けることができなかった理由は、この背景に負けたから。どんな環境でも、私は走りつづけなければ
ならなかったのに、私は疲れ果ててしまった。ケガをして、再起不能。そういうわけなんです」
赤野は、優妃の言葉を静かに聞いていた。
その時、ゴオオっと空の向こうから聞こえてくるような大きな音がした。優妃が時計を見ると、午後12時5分。
「あれだ」
赤野が上を向いて言った。優妃も、グイっと上を向く。
眩しい日差しに、手をかざしながら。遠目に、空港を飛び立った飛行機が向こうの空を向いて上昇していっている
光景が見えた。優妃は、つぶやいた。
「もう、類には会えないだろうな。外国を放浪して、誰にも見取られないまま死んでしまうんじゃないかな」
幼い頃自分の後を必死でついてまわる類の姿を思い出した。ネエチャン。いつもそう自分のことを呼んだ。
−ネエチャン、足速い−そう大きな声で言いながら、優妃の走る後をついてきた。
強い風がふき、伸び上がって上を向いている優妃のスカートの裾を、ふわっとなびかせた。
「また会えるさ。人生長いんだ」
横から声がした。その声に我に返ったようになった優妃は、背伸びをして上を見ていた体勢を元に戻した。
今の言葉をじっと、心で噛みしめた。そうね、そうかもしれないね。そう思った。
その時、雲が太陽を遮り、逆光のためあまり見えなかった赤野の顔がよく見えた。微かに笑っていた。
「そんな理由で、あなたが追いかけていた‘走る私’を捨てたこと、バカだって思うでしょ」
優妃は寂しく言う。どう思われようと、もう仕方ない。けれど赤野は、微笑をやめなかった。
「いや。これからだ」
「・・・・・・また走るの?私」
「それもあるかもしれないけど、君の生活は、まだまだこれからだ。‘こんなもんじゃない’」
‘こんなもんじゃない’を、いたずらっぽく強調して言う。それがおかしくて、思わず優妃はニッコリと笑った。そして、
コロコロと笑いながら上を向いた。しばらく、今の赤野の言葉を考えた。
何分たっただろうか、シャッターを押す音がした。驚いて音のした方を見ると、赤野がいつのまにかカメラを持って
優妃を写していた。
「・・・・・・」
少し前の優妃だったら、また無断で、と気分を害したかもしれない。けれど、今の優妃には写真を撮る赤野を責め
る気は、まったくなかった。ただ、笑ってからかうように言った。
「これって、取材用の写真ですか?」
「・・・・・・違うよ」
顔からカメラを外して、優妃を見つめた。
「俺個人の写真。あなたが俺の前で初めて笑顔を見せた、その記念だ」
その言葉に、優妃は気持ちを大きく揺さぶられた。初めて笑顔を見せた、その記念・・・・・・。
青い空では、類が乗った飛行機が遥か彼方、もう点のように小さくなっていた。
やがて消えて見えなくなった。
−飛行機・おわり−
Background photo by sorairo
no chizu
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