<<< 喫茶店 毬藻 >>>

−ファインダー・5−

 

 「あの、赤野さん。」

 「はい」

 「お仕事相手の方にだったら、あなたのその有無を言わさない強引さは、すごい武器になってるんだと思い

ます」

 「ええ」

 シートベルトをつけながら、前を向いたまま赤野は優妃の次の言葉を待った。優妃は、だんだんと手が暖かく

なってきたと同時に正気に戻ったようになって、赤野に意見した。

 「でも、私のような素人相手では、それは単なるただの非常識な強引さに過ぎませんけど」

 優妃は助手席に座ったまま、シートベルトもせずにグっと赤野を睨みつけた。すると反対に赤野は、じっと光る

目でその優妃を見た。

 また、蛙が蛇に睨まれたように優妃は体が固まった。怖い・・・・・・。

 優妃の緊張を見て取った赤野は、唇を引き結ぶようにして笑顔を作った。無理矢理に笑顔を作ったようだった。

 「申し訳ない。でも、こうでもしないと、俺とあなたは会う時間が持てないような気がして。少し強引だったかな」

 優妃は黙り込んで、考えた。途中、赤野がシートベルト、というようなジェスチャーをしたので無意識にベルトを

つけ、軽やかに走る車の中でも考え込んでいた。

 つまり、今一番聞きたいのは、一体私に何の用事があるのか、ということ。なんなの?いったい何が言いたいの?

 しかし、優妃には口に出してその質問をぶつける勇気が、なぜかなかった。

 

 向かった先は、優妃が一度も足を運んだことがないような、おしゃれで高級そうなレストランだった。

 奥の2人席に案内され、慣れたようにオーダーを済ませた赤野は、‘さてと’、と小さくつぶやいて、優妃を初めて

真正面から見た。

 「恩田さん」

 「はい」

 「実は・・・・・・。あなたに確かめたいことがあったんだ」

 なんでしょう?と、優妃は思わず心の中で叫んだ。赤野の目の前では平気な顔で睨みつける自分を演じているが、

実は心臓が爆発しそうなくらい緊張していた。この店の雰囲気にも、キャンドルを挟んで薄明かりで見る赤野の表情

にも。

 「なぜ、大学1年の時、短距離走を辞めたんだ?」

 思ってもいない質問に、優妃は時間が止まったかと思ったほどだった。赤野は、小声になる代わりに、優妃の方へ

体を近づけるため、組んだ腕をテーブルに乗せた。

 「俺は、今の出版社で最初は、‘ATHLETE’という雑誌の写真を担当していた。知ってるね?スポーツの、

月刊誌だ」

 何も返事を返さない優妃を、赤野はチラリと見たが構わずに話し続けた。

 「仕事のやりかたも分かってきて、取材がおもしろくなり始めた頃、将来を嘱望された一人の学生を知った。初めて

ページの担当をまかされたのが、その彼女の特集だった。中学生の頃から、陸上界ではちょっとした有名選手で、

高校の時はインターハイで高校生の日本新記録まで出した。その記録は、今も破られていない」

 食前酒が運ばれてきた。無意識に、優妃は手を伸ばしグラスを口につけた。赤野がしゃべる口元を、じっと見た。

 「彼女の走りに、俺は励まされた。色々と悩むこともあった当時、ただ無になって走り続ける彼女をトラックで見て、

しかもファインダーを通して写した時、俺は吹っ切れたんだ。他人の走る姿を見て、あんなに心から美しいと思った

ことはあれが最初で最後だ。それ以来、どの競技でも出かけてその選手の走る姿を撮り続けた。ファインダー越し

に、彼女を追いかける毎日だった」

 赤野は、真剣な眼を一時も優妃から外さずに、なおも続けた。無口なタイプであろう彼が、熱を込めて話して

いる。

 はたから見たら、熱心に優妃をくどいているようにも見えただろう。

 「編集部に来たあなたを、始めはどこか見覚えのある女性だと思った。そして、喫茶店で桜木さんがあなたの

名前を呼んだ時、急に思い当たったんだ。あなたはあの選手だと。あの時と随分雰囲気が変わっていたから分

からなかった」

 優妃は、卒然と立ちあがった。もうこれ以上、この場にはいられないと思った。お願いだから、私に過去を思い

出させないで。そう叫びたかった。

 「やっぱり、あなたはずるい。骨の髄まで、マスコミ根性なんだわ」

 急に立ちあがった優妃を、赤野は夢から覚めた人のように驚いて見上げた。

 「何か魂胆があると思った。そうやって、また私のことを記事にするんでしょう、おもしろおかしく。毬藻店長の時

と同じように、了承も得ずに今日私と会ったことを、記事にするんでしょう。‘あの人は今’ってね」

 優妃の両目に、ぶわりと涙が浮かんだ。赤野は、その涙を見て狼狽したようだった。

 「記事のためなら、人の気持ちなんてどうでもいいんですか」

 テーブルの周りの客たちが、チラチラと赤野と優妃を見ている。

 赤野は、ちょっと下を向いて立ちあがった。

 「すまない、そんなつもりでは」

 「帰ります」

 店を出た優妃を、赤野は追いかけてきた。優妃の肘をつかんで、自分の方へ向かせる。優妃は、堰を切ったよう

に涙を流し続けている。

 「送るから」

 「タクシーで帰ります」

 赤野の手を振り切って、ちょうどやってきたタクシーに優妃は乗りこんだ。

 自分の家の住所を告げ、優妃はシートに深く体をもたれた。思わぬ人から、自分の過去を聞かされた。

 あの、人生で一番輝いていた日々。走ることが楽しくて仕方がなかった日々。走ることしか考えなかった日々。

 類の傷害事件で身も心も疲れ果てた時、練習中に足の腱を切った。それは致命的な傷だった。

 全てを知っていた監督の配慮でマスコミにはいっさい公表されずに、優妃は陸上の世界から引退した。

 

 タクシーの中でさんざん涙を流した彼女は、自分の部屋に帰って来た時、急に恥ずかしくなった。

 ベッドの上に腰を下ろして、涙を流した後の脱力感のために呆然とした。人前で、あんなに大声を出して、

しかもわーわー泣いてしまった。取り乱してしまった。

 恥ずかしい・・・・・・。

 そして、ふとおかしくなって咳き込むように笑った。

 「赤野さん・・・・・・、恨むわよ、今日のことは」

 笑いながら、優妃は狼狽した赤野の顔を思い出し、また笑いが込み上げてきた。なんか、悪かったかな、

と思うと同時に、やはり彼は油断ならないという結果に落ち着いた。

 そして、笑いながら、また涙が眼から流れていることにも気付いていた。

                                            −ファインダー・おわり−

 

      


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