+++ 交差 +++

 

 「夢のあるお話を書きたいわ・・・…」

 そう、友香は口癖のように言っていた。小説、と言わず、お話、という所が常に夢を見ていたような

彼女らしくて、俺は好きだった。

 大学時代、同じ文学部ドイツ語学科に在籍していた俺と友香は、いわゆる恋人でも何でもない、

ただの友人だった。  

 「ね、わたらい君は、どうしてドイツ語選んだの」

 確かに俺は渡会と書いて‘わたらい’と読むが、友香が声に出すと1語1語はっきりと発音するので

俺の耳には平仮名で‘わたらい’と聞こえる。

 舌足らずではなく、彼女の人柄と同じで凛とした発音だった。

 「別に・・・…深い意味はないけれど。英語が苦手なんで、ドイツ語だったら一から学べるからいいかな

と思ったからかな」

 「それももっともな考えだわね。賢いわ」

 校内の中庭で、お互い違う仲間を待ち合わせしながら、俺と友香はそんな何気ない話をしていた。

 あれは、2年生の秋だっただろうか。

 「友香は?」

 「私?そうね。私も深い意味はないかな。ドイツに憧れていたから。ただそれだけかもしれない」

 「ドイツのどこに憧れてるの」

 「ドナウ川……なんて言ったら、ロマンチックで笑う?」

 「ドナウ、ねえ・・・・・・。いいんじゃない。ドナウ川クルーズなんて遊覧船で行くやつ。あれ優雅だよな。

ああいうのに憧れてるってこと?」

 「ううん・・・・・・。そうね、それもあるけれど。私は、アックシュタイン城に行って取材をしたいわ」

 「?」

 俺が眉をひそめて、その聞いたこともない城の名前を頭の中で繰り返していると、彼女は夢を見るような

目で空を仰いだ。

 「盗賊になった騎士が住んでいた、山の上の城。ロマンでしょ。ドナウ川のほとりにあるのよ。その城の

麓の村で繰り広げられる、現代の人間模様を小説に書いてみたいわ」

 ひっそりと肩を潜めてクスクス、と笑った彼女を思い出す。そして俺たちは、動機なんてそんなもんだよな、

とお互いさらに笑い合った。  

 

 友香が、しばらく元気のない時期があった。4年生にあがった頃だったと思う。俺は進路を、とある民放の

テレビ局記者と決めていた(内定ももらっていた)ので、大学へはめったに顔を出さなかったというのもあって、

友香の異変は共通の友人を通して知った。

 「渡会知ってるか?友香体壊したみたいだぞ」

 「なぜ?」

 俺は意外に思って、その友人の顔をマジマジと見た。場所は講義室。単位に関係する講義だったので、

俺が時間ぎりぎりに駆込みその友人の隣りに座ったあと、彼は即座にそう言った。

 友香は、今時の女子大生で、格好もいつもコジャレていたし、毎日楽しそうにキャンパスライフを楽しんで

いるような印象が俺にはあった。ドイツ語研究会のサークルなどにも入って、俺たちクラスメイトよりもはるか

に勉学への意欲は満ち満ちていた彼女が、体を壊す・・・…。いったいどうしたのだろうか。俺は疑問を感じ

た。

 「あいつ、卒業後にドイツに留学する予定だったろ。その為の資金を貯めるとか何とかで、連日連夜の

バイトがたたったらしい」

 「へえ・・…。そんな体壊すまでバイトしてたのか」

 その時、斜め前に座っていたこれも顔見知りの友人が、俺たちの話を聞きつけてこう切り出した。

 「おい、うわさだけど、友香夜のバイトにも手を出してたらしい」

 「夜のバイト?やけに古臭い表現使うな」

 俺の隣りの友人が、笑って俺の顔を見た。俺は、うつろな目を遥か前の壇上に向けた。

 ホステスか何かをやってたんだろうか。まさかそれ以上の・・・・・・。バカなことするな・・・…。

 俺は、友香に対してやり場のない怒りを感じた。別に俺の彼女というわけではなかたったが、一クラス

しかないドイツ語学科で連帯感を持っていた仲間の一人が、たとえ留学資金のためだと言ってそんな

ことまでするとは、俺には(特に当時若かった俺には)理解ができなかったのだ。

 

 俺が友香を見舞ったのは、それから二日後の肌寒い日だった。彼女は市内の病院に入院していて、

俺が病室に訪ねると青白い顔で、しかしニッコリと微笑んだ。

 「わざわざありがとう、渡会さんって言うのね、珍しいお名前だわ」

 付き添いをしていた友香の母親が、彼女と同じ美しい顔を微笑ませてそう言った。

 その母親がお茶を入れに病室を後にしたとき、俺は思わずこう言ってしまった。

 「聞いたんだけど……なんか、よくないバイトしてたらしいじゃないか」

 思わず問い詰めるような口調になってしまったことを、今でも悔やんでいる。なぜなら、その後の友香の

表情は俺にとって、ちょっとやそっとでは忘れられそうもなかったからだ。

 友香は、まるで聖母のような、けれど世の中を達観してしまったような微笑を浮かべて、笑っただけだった。

そしてしばらく窓の外を見ていたが、小さく、しっかりした声で言った。

 「見ていて。私はドイツで骨をうずめてみせるから……」    

 

 卒業式の日は、雪だった。季節はずれの、今年最後の雪。大学の卒業式なんて・・・…という友人を説得して、

俺は出席した。

 学生課の先生の所で用事を済ませ、俺が校舎を出ようとしたのが午後2時近く。白い息をはいて中庭を歩い

ていた俺に、後ろから声をかける人がいた。

 「わたらい君のスーツ姿なんて、初めて見た」

 振り向くと、目のさめるような振袖を着た友香が卒業証書の筒を手に立っていた。

 「おお、友香か。着物、きれいだな」

 「ありがとう」

 小さく小雪が舞い散る中、すっかりもとの元気を取り戻した友香がニコリと笑った。俺たちは、寒かったけれど

そのままそこに佇み、池の鯉を2人で見ていた。

 「誰かと待ち合わせ?」

 「うん、お母さんとお父さんが来てるの。今車を校門までまわしてくれてる」

 「へえ・・・…。友香の家って、新潟だったよな。わざわざ来たの、お父さんとお母さん」

 「そうなのよ、一応一人娘だから」

 小雪が、いつのまにか粒が大きくなってきた。雨ならばここには立っていられないが、雪というのは不思議なも

ので、ちっとも不快に感じない。

 しかし俺は、友香が振袖を着ていることを思い出し、慌ててしまった。

 「悪いな、振袖濡れるな。そうだ、今晩クラスのやつらと集まるんだけど、お前も来るだろ?」

 「何時から?」

 「夜の7時から。百年茶屋で」

 友香は噴出して笑った。いつもの居酒屋ね・・・…4年間よく行ったわよね、と呟いた。

 「ごめん、両親と食事の約束してるんだ。こういう日ぐらいはね」

 「そうか。じゃあ仕方ないな。みんなにも言っとくよ」

 じゃあ・・・…と、俺たちは向き合った。元気で、と、俺と友香は手を硬く握り合った。冷やりと冷たい彼女の

手が、なぜか心地よかった。

 小走りに校門の方へ去っていく友香の後ろ姿を見つめて、確か先週教室で会ったとき、半年後にドイツの

大学に編入すると言っていたことを思い出した。奴のドイツ好きは筋金入りだったんだな…とぼんやりと思う。

 そして、大学の4年間、彼女を含めた少数のクラスがどれほど楽しかったのか、俺はなくなったときに初めて

気付くような気持ちがして、ふと柄に似合わずセンチな気分で再び池を見つめた。

 池には、ポツポツと雪が降りこむ様子が、規則正しく水面を打っていた。  

 

 あれから今日で、もう13年の月日がたった。俺はデスクに座り、窓の外から見える寒空をじっと見つめた。

 先月のことだが、彼女が芥川賞を受賞した。彼女の帰国に合わせて早速俺たち元ドイツ語クラスが主催して

東京で祝賀会を催した。誰もが、13年ぶりに会う彼女だった。

 2次会であるホテルの最上階にあるバーに行った時、ふと俺と友香と2人きりになる瞬間があった。俺が店の

外のフロアで妻に携帯で今夜の帰りの時間を知らせている時だった。

 フロアの奥にあるトイレからたまたま友香が一人で出てきて、俺たちは鉢合わせする形になった。

 俺が電話を切るまで静かに傍らで待っていた友香は、「奥さん?」と、昔と変わらない美しい笑顔でニコリと

微笑んだ。うなずいた俺に、友香はまたニコリと微笑んだ。

 「お前、変わらないよな」

 さっきから、彼女が大勢のクラスメイトに言われている言葉を、俺も言った。目の前で、黒のレース地のストール

をまとい同じ黒のロングスカートをはいた彼女は、大学時代と少しも変わらない溌剌とした明るさと華があった。

 しかし、俺のその言葉にふと寂しそうに彼女が笑ったことを、俺は見逃さなかった。おかしいな、と思った。

 「そう見える?」

 「・・・…見えるさ。ずっとあっちで生活してるから、垢抜けてるし。なんたって、芥川賞作家になったなんて思え

ないぐらい昔のお前だぜ」

 少しおかしくなった友香の雰囲気を明るくしようと、俺はわざとおどけた。しかし、彼女は黙ったままだった。

そして、俺と同じ壁側に背をもたれ、上を向いてふう、と息を吐いた。

 「私、これでも色々あったのよ」

 そして下を向き、ふと笑った。色々あったの。少し疲れてるのよ。と、小さく呟いた。

 「わたらい君こそ、少しも変わっていないわ。大学時代の、熱血文学青年のまま歳を重ねた、という感じね」

 俺はそう言われ、照れて真正面の向かいの壁を見た。

 「歳とったさ。仕事に追われて、生活も犠牲になりがちだし」

 言葉を続けようとして、俺は自分の横顔にふと視線を感じた。ゆっくり顔を横に向けると、友香が、じっと俺の

顔を穴が開くんじゃないかというほど、見ていた。

 なんだよ、と軽口を叩けるような雰囲気ではない。今の妻と結婚するまで、少ないがいくつか恋愛を経験して

きた俺でも分かる、あの、微妙な、ピンと張り詰めるような空気が流れた。

 友香の目は、熱を帯びて、俺を見ていた。俺は、息を呑んだ。

 「幸せなのね、わたらい君。奥さんがうらやましいわ。あなたが相手だったら、きっと相手も一生幸せだわ」

 鈍感な俺にも、友香と俺の間には、この瞬間に今にも2本の線が交わって太い1本になる、そんな‘線’が

走っているのを嫌というほど体に感じた。

 超えるにはたやすい、微妙な一線。俺たちは物も言わずに、立ちすくんでお互いの顔を凝視した。  

 ・・・・・しかしその時、俺は超えなかった。線はそのまま、一瞬交差してまた遠い方向に向かった。

 超えることはたやすい、しかし超えてはならない一線。俺には、友香との間にはその線がある、なければ

ならない、そう思えた。

 

 「あの頃あんなに憧れたアックシュタイン城は、霧がかかったまま私が足を踏み入れるのを拒むかのように

思えます。知っていますか?当時、城から捕虜が谷底に突き落とされたんですって。

 今川のほとりのデルシュタインという街に住んでいます。」

 昨日会社宛てに来た彼女からのハガキには、祝賀会のお礼と一緒に手書きでそう書かれていた。

 あのフロアで2人立ちすくんだ時の、足先から頭の先まで戦慄が走るかのような止まった空気を、思い出す。

 そして、その空気も、アックシュタイン城の霧にまぎれて消えてしまったことも、今の俺は感じる。

 「あいつ、生きてるだろうか」

 なぜか、今この瞬間の彼女の‘生’を危ぶんだ。

 周りの雑音に我に返った俺は、手もとの時計に目をやって次の取材の時間が迫っていることに気付いた。

 その絵葉書をそっとデスクの引き出しにしまい、立ちあがってスーツのジャケットを着、記者室を後にした。

 

      

Background photo by MIYUKI PHOTO.

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