+++  明日への観覧車  +++

 

−2−

 

 平日の昼間というのに、いい天気に誘われてかこの遊園地にはたくさんの人が訪れており、

楽しそうなざわめきがゴンドラの窓を通してこもって聞こえてくる。

 この観覧車も、満員とまではいかないけれどポツリポツリと人が乗っている姿が見える。

 しかしさすがに、私の乗ったゴンドラほど重苦しい空気のものは他には存在しないだろうと思う。

 私の先ほどの言葉からずっと、彼は一言もしゃべらなかった。観覧車が1周する15分は、私

にとって1日よりも2日よりも長い時間のように感じられ、けれども観覧車は律儀にもまた地上近く

に戻って下り始めた。私はカラカラになった口の中を舌で湿らせて、口火を切った。

 「だから、駄目なのよ、付き合えないの」

 「・・・・・・それほど、生理的に俺を受け付けないってこと?」

 彼は物憂げに私の方を見ながら言った。私は違う、と首を振る。

 「そういう問題じゃない。あなたには分からないわよ」

 「分かるさ。話してみないと始まらないだろ?何が不安なのか言ってごらん」

 不安、と言い当てられて私は驚いた。彼は、相変わらず警察官特有の眼の鋭さを少しも緩めず、

私を見続ける。次第に、私はその眼から逃れられず、頭の奥がグルグルとしてきた。催眠術に

でもあったような、そんな眩暈を感じ始めた。

 「・・・・・・怖いのよ」

 「何が?」

 「男女が付き合うということは、ただ普通に食事をして楽しい時間を過ごして、だけではない

でしょう」

 「セックスが怖いの?」

 ガタン、と身に覚えのある揺れ方を、ゴンドラがした。これは地上に近づいたときに必ず揺れる

揺れ方だ。私は凍りついたまま、眼だけを地上に泳がせる。あの係員が、近くに立って私を

心配そうに見ていた。そして、‘警察を呼びますか?’と緊迫した声で言っているのが聞こえた。

 ‘お願いします’、とそう言いかけた‘お’の部分で、彼がガラリとゴンドラの窓を開けた。

 「大丈夫ですよ。ちょっと真剣な話をしているもので。あと8周ですね」

 ゴトリゴトリ。上へあがる。開けたままの窓から、冬の冷たい風が吹きすさんだ。

 「そうなんだろう?」

 囁くような声で、彼が言う。私は眼をつむり、また開けた。

 「中学3年生のとき、嫌な目にあったの」

 「どんな?とても傷ついたの?」

 彼の囁き声は、思いのほか私の心の扉を優しく開けた。私はほとんど封印しかけていた、

忌まわしい記憶をたどる。母親に弟がいた。職業は歯科医で、昔から羽振りがよく金の使いが

荒い男だった。母がするその男の昔話や、本人の態度から察するに人の身体を治す医者とは

思えないような胡散臭い雰囲気を私はいつもその叔父に抱いていた。

 ある日曜日の夕方、梅雨の半ばで雨がひどく降っていた。家にはたまたま私しかいず、

突然尋ねてきた叔父の応対をした。細かいことはほとんど忘れている。ただ叔父の、私を

嘗め回すように見るいやらしい目つきは生涯忘れないだろう。

 「あの男は突然自分の性器を私に握らせ、同時に私を押し倒して身体を触ったわ」

 言葉は発しないけれど、目の前の彼が殺気立ったのが分かった。

 「それだけよ」

 それ以上は、私が渾身の力を込めて叔父をはねのけたので無事だった。

 「でも、私の服の下に手を入れて触ったあの指の感触は本当に昨日のことのように

思い出せる。下半身まで触れられたの」

 喋りながら、私の目から涙が出ていた。私はそれに気がつかなかったが、彼が手を伸ばして

指で拭き取ってくれた時に泣いていることに気がついた。

 「汚らしいわ。男って、汚らしい。どんなに紳士的な素振りで近づいてきても、結局はあの

男と一緒なんだわ。セックスのことばかり。いやらしいことばかり」 

 しばらく、私は下を向いて唇を噛んだ。

 ガタ、と音がして顔を上げると、彼が窓を閉めた所だった。

 そろそろ観覧車はまた頂上付近だ。彼が、静かに話し始めた。

 「君が怒ることを承知で言うよ。君は、そうは思いながらも俺に抱かれることを想像してそれも

悪くはない、と思う自分に、戸惑っている。そうじゃないかい?」

 私は顔に、というより頭に血が上った。まさに図星だったからだ。

 数年ぶりに再会した幼馴染の彼は、思いがけず大人の男、自分の仕事に誇りを持って心血を

注ぐ男性になっていた。彼と会うたびに、彼のことが好きで、愛しくて、そしてものの考え方に共鳴

できて。思わず心が暴走しそうになる自分を、あの忌まわしい過去がブレーキとなっていた。

 「俺は、確かに君の思うところの‘男’だけど。健康的で適度な野獣だけど」

 真面目くさった態度と顔で言う彼がおかしく、私はその日初めて笑った。彼もつられてニマリ

とする。

 「君を襲った奴と決定的に違うところは、君の意思を尊重するところだと思う。例えば、」

  彼が急に手を伸ばして、私の顎をつかんだ。冷やりと、少し冷たい彼の手の感触に、私は

ぞくりとして飛び上がりそうになった。

 「驚かせてごめん、例えば、俺はここで君を抱いたってかまわないんだよ。むしろ、そう

したいと思っている」

 「公然わいせつ罪に適応するわよ。不祥事を起こしていいの」

 「分かってるよ」

 私はどうやら軽い皮肉を言う余裕があるようだった。以前なら、少し親しくなった男たちから

欲望めいた言葉を聞くと瞬時に心がシャットアウトしていたのだが、彼とは違った。

 渋い、しかめ面に近いような顔をしてさらりと言う。恐らくこの渋い顔は職業病なのだろう、

そして私にとっては不謹慎な響きを持たなかった。

 「とにかく、そうは思っていても理性が働く。即セックス、という考えは捨てろよ。君が充分俺を

理解して、俺も君を充分理解するまではそうそうそんな関係にはならないから。性欲の操縦が

うまくない中高生ならともかく、俺も君も分別あるいい大人だ」

 地上がまた近づいてきた。ゴトリゴトリ、と、あの独特の揺れがした。もう何回目なのだろう、

私は自分が何周観覧車に乗っているのか全く分からなくなっている。

 私と彼は、なんとなくお互いの顔を見た。

 「そろそろ、降りようか?」

 彼の言葉を、私は遮った。

 「でも、私あなたとはお付き合いできないから」

 目の端で、あの親切な係員が心配げに私の乗ったゴンドラを見ているのが分かった。しかも、

今度は彼の方を見ているようだ。彼が呆れと怒りと落胆で、ぐったりとしているからだ。

 ウィーン、という機械音が響き、再度ゴンドラは頂上へ登るべく上を目指し始めた。

 外は、冬の乾いた風が強く吹き付ける。私と彼は、人形のように身体を揺らして静かに乗っていた。

 

   

 

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