+++ 普通電車に飛び乗って +++

 

−2−

 

 その男性を見かけたのは、やはり次の日曜日だった。

 見かけた、というのは語弊があるかもしれない、私がこの1週間、目を皿のようにして

彼の姿を探していた結果見つけることができた、のかもしれない。

 あの魔法の彼の手が、非常に心に残っている。この1週間は、気がつくとぼんやりと、

彼の姿を思い浮かべる自分にとまどってしまった。素敵な人だった、と思っている自分

にも。鉄道博物館・・・・・・私にとっての仕事場に来る男性、しかもお客さんにこんな思いを

抱いたのは、実は初めてなのだ。

 おそらく年齢は、私と同じぐらいだろう、20代後半に思える。ジーンズにシャツに黒いブルゾン

を着て、普通の、ごくノーマルな、そう窓口の女の子たちの言葉で言うとノーマルな部類の

男性、例えば博物館に一度行ってみたかった彼女に仕方なく付き合ってきた彼氏、という

説明も似合う男性だ。

 けれど私には、どことなく‘詳しい’オーラを彼に感じた。電車が、鉄道が好きな人、の

オーラがする。

 

 忙しい日曜日ももう終盤にかかった午後4時半頃、館内をまわっていた私は、2階の

廊下の先に彼を見つけて、思わず心臓が高鳴った。恥ずかしいぐらいに高鳴った。

 彼は、常設展示のパネル版に見入っているようだった。

 この時間は、たいていお客さんは1階に下りてカフェでお茶をしていたり、大パノラマの

電車のショーを見ていたりしてこの専門的な資料の多い2階に人影はまばらである。

 今も、私の後にも先にも誰もいず、ただ彼がたたずむのみだった。

 建物の大きな窓から、初冬の夕暮れの光が柔らかく館内に降り注ぎ、私は一層ぼんやり

と、半ばうっとりと彼の姿を眺めてしまう。

 コツ、という私の足音に気づいたのか、その彼が私の方を振り向いた。

 そして、ああ、と気がついたように笑顔になり、会釈した。

 私も微笑んで会釈する。

 「先日は、ありがとうございました」

 私は彼に近づきながらそう声をかけた。きっと今の私は、顔の表情や態度は、あの

窓口の後輩たちが言うとおり、‘余裕の’雰囲気だろう。けれど、私は内心、バカみたいに

緊張して震えそうになっていた。どうしてここまで、彼は私を緊張させるのだろう。

 その男性は私のお礼の言葉に、微笑んでもう一度会釈した。

 私と彼は並んで、今彼が見ていた大きな、畳1枚分はあると思われるほど大きな

地元特急電車のパネル版の前に立った。

 「電車が、お好きなんですか?」

 私は直球で聞いてみた。この館内では、電車好きはちっともおかしなことではなく

当たり前のことなんですよ、と伝えたくて、あえて直球にしてみたのだ。

 彼はなぜか申し訳なさそうな顔をして、私のほうを見て言った。

 「そうなんです、小さい頃から好きでね。この博物館ができたころから、結構通って

ます」

 「まあ、9年前もから?」

 「ええ。展示物も時々変わるしね。すごく好きな場所なんですよ、ここは」

 ありがとうございます、と小さく声に出して答える私を、隣からやけに真剣に眺める

視線を感じて背筋が思わずゾクリとする。言うまでもなく、恐怖のためのゾクリ、ではなく

武者震いのようなゾクリ、である。

 「このパネル・・・・・・ずっと見ていましたね」

 私は、彼の真正面にある大きなパネル、海沿いの線路を白い特急電車がカーブから

曲がって走ってくる瞬間を、おそらく少し小高い場所から撮っているのであろう写真を

見上げて彼に言う。桜の枝と白い特急が微妙に遠近法で撮られていて、とても美しい、

と私は思った。

 「子供の頃大好きだった特急なんです。それで、ええと」

 突然、彼が体ごと私のほうへ向きを変えて、真剣な眼差しを向けた。私は思わず

直立する。

 「これは、確かつい最近、展示が始まったものですよね?」

 「え?ええ、そうです。今月に入ってからですね」

 私は頭をフル回転させて、この写真を展示するいきさつをたどった。

 「これを撮られた方が、この博物館に寄贈してくださったんです」

 「その方は、なんという方かお分かりになりますか・・・・・・」

 「この方ですか?」

 私は少し驚いて彼を見上げた。電車自体に興味があるのだと思っていたけれど、

この写真を撮った人のことまで聞かれるとは思わなかったからだ。

 「ええと、申し訳ありません、今お名前が出てこないのですが、事務所に行けば

分かるはずです」 

 「そうですか・・・・・・」

 彼はそこでいったん言葉を切って、またパネルに向き直った。

 「実はね。多分、多分間違いないと思うんだけど、この写真をこの人が撮った時、自分は

そばにいたんです」

 「え?」

 私は思ってもいない話の展開に、パネルと彼の顔を交互に見た。彼の少し長めの前髪は、

二重のきれいな目にかかっていて、ちょっとチクチクするのか彼は一瞬目を細めてから

また目を見開いた。

 「自分の親父というのが、ものすごい鉄道マニアで。俺は親父にくっついて、有名な鉄道を

見るために日本の各地を長い休みの度に、よく旅行したていたんです。この写真の場所は、

鉄道マニアにはけっこう知られたポイントでね、俺が親父とカメラ片手に訪れたときも、

すでに1人の男性が立派なカメラを構えてシャッターチャンスを狙っていたところだったんだ」

 いったん言葉を切って、彼は白い特急を指差した。眼差しは夢中で、まるで鉄道少年の

ようだった。

 「この特急は、めったにここを通らないんです。線路の向こうから白い車体が見えたとき、

俺は子供心にわくわくしたことを覚えていますよ。そのときもちろん、その男性も夢中で

シャッターを切っていた。あの電車がちょうどこの写真と同じ位置ぐらいにカーブを曲がって

来たときの海の波の具合とか、天気具合、雲の形、日の光・・・・・・、ちょっと恐ろしいくらいに

自分は覚えていたんです。それが・・・・・・」

 「この写真に酷似しているんですね?」

 私は彼の言葉を継いで、そう言った。彼の熱のある言葉に、思わずこちらも引き込まれて

しまっていたので、我知らず口を突いて出てしまったのだ。彼は夢から覚めたような驚いた顔を

して私を見下ろし、そして口を引き結んで頷いた。

 「そうなんです。最初は気のせいと思ったんですが、ここに来てこのパネルを見るたびに、

やっぱりあの時の、あの瞬間だ、という気がしてならなくて」

 「そうですか・・・・・・」

 私は、その電車が去った後、きっとシャッターを切った男性と、彼と、彼のお父さんが交わした

であろう満足の頷きあいを、容易に・・・・・・まるで映画の1シーンのように思い浮かぶことができた。

みんな、それほど、電車が好きなのだな、と私は思う。

 「少しお時間をいただければ、お調べすることはできると思います。先に上司に許可を得ます

が・・・・・・。よかったら、事務所の近くでお待ちいただけますか?」

 「ありがとうございます。無理だったらいいんです。お名前を伺って、その方が写真集でも出して

いれば買ってみようかな、と思ったぐらいですから」

 そう言って、彼は急にまたあの真剣な顔つきで私の、今度は胸元を凝視した。またゾクリ、と

くる。どうやら名札を見ているらしい。

 「徳間さん・・・・・・ですか、お手数をおかけしてすみません」

 「いいえ、気になさらないでください」 

 私と彼は、一緒に1階へ下りる階段へ向かった。

 

 私の話を聞いた力山支配人は、「うん、いいんじゃない、名前ぐらい教えてあげてかまわないよ」

と快諾してくれた。私は資料を探し、あの写真を寄贈してくれた方の名前をメモに控え、事務所を

出た。

 きょろきょろ、と辺りを探すと、彼は少し離れたところにある木のベンチに腰掛けていた。

 私が名前を書いたメモを渡すと、嬉しそうに口の中で名前を反芻し、そのメモを大事に握る。

その仕草のひとつひとつに、とても少年のような純粋さを感じ、また私の胸は高鳴った。

 「ええとね」

 その声がしたので振り向くと、力山支配人が事務所から出てきていた。

 「その陣内さんは、長いこと大阪のほうに住んでいたんだけど、昨年仕事を定年退職した後、

故郷のこっちに帰ってきたんですよ。この博物館にも、月に何回かお見えになりますよ。よかったら

徳間君、陣内さんに連絡取ってみて、次はいつこちらに来館予定か聞いて、この彼と少し話が

できるようにしてあげたらいいんじゃない?陣内さんのファンがせっかくこうやって来てくれる

んだからさ」

 にこにこと笑って、力山支配人は私と彼の顔を交互に見た。私も彼を見ると、いいのでしょうか、

という表情をしながらも目はあの少年の輝きで嬉しそうに笑っている。

 私は二人の男性に力強くうなずいてみせ、

 「そうですね、そうしてみましょう、ぜひ」

 としっかりとした声で言った。

 

 今私は、彼の携帯電話の番号が書かれた紙をデスクに置いて呼吸を整えている最中だ。

心の中で3、2、1とカウントして、えい、と受話器を取る。そして、紙に書かれている番号を

押す。

 4コール目の半ばで、相手が出た。

 「はい柏木です」

 「柏木さんですか。鉄道博物館の、徳間です」

 「徳間さん」

 最初に電話に出た時のおそらく仕事モードの口調とは打って変わって、明るい声で私の名前

を呼ぶ。奇妙な満足感にも似た嬉しさが込み上げてきた。

 私は、あの写真を撮った方、陣内さんが今週の日曜日の午後、こちらへ来館する旨を伝える。

 「陣内さん、とても嬉しそうでした。ぜひ柏木さんとお会いして、お話してみたいって言われて

いましたよ」

 「それはこっちも嬉しいなあ。そうですか。日曜日ですね。わかりました、伺います」

 それではお待ちしております、と電話を切ろうとした私の耳に、少し慌てて付け加える柏木さんの

声が聞こえる。

 「日曜日は、徳間さんもご出勤ですか?」

 「え?私ですか?はい、おります」

 「そうですか。ではその時にまた」

 お互いにありがとうございました、と礼を言い合って、私は電話を切った。

 

   

Background photo by  空色の地図

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