+++ 秋をのりこえた人 +++

 

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 オフィス・・・・・・といっても、テナントビルの8階、狭いフロアに少々無理に机や機材を

押し込んだ感のある空間だ。そのオフィスのデスクに座って、葉月は黙々と手元のパソコンに

手を走らせていた。Rビルに3名派遣している夜間警備員のシフトだったが、キィ、と前方から

椅子のきしむ音が聞こえるたびにチラとその方向を見た。

 午前の眩しい光をブラインドが多少遮っているとはいえ、爽やかな明るさを保つ室内。

大量のコピーを葉月がセットしたためコピー機がフル回転している音。その間を縫って、

前方にデスクをかまえる半藤が、静かに、多少眉間にしわを寄せなにやら時折ブツブツと

口の中で反芻しながら手元の書類に集中している姿が目に止まった。 

 この会社では事務処理と社長秘書、その他雑務をこなす葉月が常に常勤し、その

他は半藤が外出がない以外は在室している、その2人だけだった。

 あとは登録している警備員たちが毎日立ち代り何かしら用事で顔を見せる、そのぐらいだ。

従って、オフィスはだいたい静かなものだった。

 

 もう一度、葉月はパソコンの画面越しにチラリと半藤を見た。上背のある身体をきちんと

した濃紺のスーツに包み、清潔な若さと、それに相反するような、仕事の成功からくる

落ち着いた安定感。身体全体から自信が満ち溢れている様子が、半藤という人間の魅力を

全て語っていた。

 引き結んだ口元に、いくらか皺が刻まれている。彼もやはり、昔に比べると歳を重ねて

いる、と、葉月は初めて彼を見た学生時代に思いを馳せた。

 そして、あの10月のことも。半藤が、彼の生活の中で時折思い悩んだような表情を無意識に

することがある、その原因を作ったあのこと。半藤の苦悩は、そのまま葉月の心の痛みでもあった、

彼女は今でも彼のその表情を見るたびに言いようのない痛みを感じるのである。

 

 「それじゃあ、後は頼むよ」

 その声で遠くに飛んでいた思考が一気に引き戻され、葉月は驚いた。

 「どちらへ外出ですか?」

 半藤が、ん?という表情をして、立ったまま彼女が入れたコーヒーの残りをマグカップから一気に

飲み干した。

 「今言ったよ。上の空だったな」

 軽く眉を上げてからかうような顔をして、デスクの引き出しから車のキーを取り出している。

 「すみません、ちょっとぼんやりとしていて」

 「契約の話。T市に行って来る」

 「ああ、あの古くからのお友達が経営しているという企業の」

 「うん、時間がかかりそうだから、今日は何もなければそのまま帰宅するよ」

 「分かりました」

 半藤がチラと腕時計を見て、ポケットに入れたキーを押さえて確認して、書類が入った

大きい封筒を手に持って、ふっと息をついだ。その拍子に、それらの動作をじっと見ていた

葉月と目があった。

 しばらく、妙な間があった。葉月は下唇を軽くそっと歯で噛み、その彼女の緊張したときの

癖を、口元を、半藤は食い入るように見つめた。

 「お疲れ様です」

 そのとき、勢いよくドアが開いて警備員の1人である高浜がオフィスに入ってきた。

 じゃあよろしく。と葉月に言い残して、挨拶をする高浜の肩をポンポン、と2回叩いて

頷き半藤は出て行った。

 その後姿をちょっと目で追って、興味深そうな表情を隠そうともせず葉月の前の空いた

デスクに腰を下ろした高浜は、ほんのり赤みが残る彼女の頬を見ながら言った。

 「俺、もしかして邪魔してしまいましたかね」

 「邪魔?」

 何のことを言っているのか分かったが、葉月はあえてとぼけて見せた。そして、意味ありげに

こちらに視線を向ける(けれど決して嫌味ではない)高浜の茶目っ気のある態度に軽く睨みを

効かせて、座っている椅子を回して背後のキャビネットから書類の入った封筒を取り出した。

 「はい、これ。先日言ってた必要書類。揃えておいたから、記入してまた持ってきてください」

 「すみません、お手数かけます」

 高浜は封筒を受け取って、壁にかかってある時計をみやった。彼の出勤まで、あと数時間

というところだ。

 「ああそうそう高浜君、来月のシフト、もうすぐできるから。もう少し待ってね」

 「了解」

 ところで・・・・・・というふうに高浜は椅子に座りなおして、パソコンに身体を向けた葉月に

話しかける。

 「前から思っていたんですけど、城田さんと社長はかなり付き合いが長いでしょう?」

 「付き合い?」

 「ああ、ええっとすみません、そんな風な付き合いを言うのではなく、知り合ってからの期間

ですよ」

 葉月の諌めるような表情から警戒警報を感じたのか、そう言い直す。

 「そうね・・・・・・、10年以上になるかな。どうして?」

 「いえ、2人を見てると、なんだか空気がツーカーというか、仕事の上では上司と部下

なんでしょうが、なんだか相棒というような、パートナーとういような、そんな雰囲気を感じるん

ですよね。すごく、いい感じです」

 そうかしら、と葉月は呟き関心がなさそうな顔をしてみせたが、心の中では高浜の言葉に

思わず浮き立つような高揚感を感じていた。素直に、嬉しい、とそう思った。

 「どういう知り合いだったんですか?」

 高浜特有の、裏のないストレートな質問の仕方に、普段はあまりプライベートなことは社員

には話さない葉月も思わず頬を緩めた。

 「・・・・・・社長が以前警察官だったことは知っているでしょう?私の父も警官だったの、

社長と同じ署の先輩。社長が刑事に昇進してからは同じ課でチームを組んでいたりして、

たまに家に顔を出したりしていたから・・・・・・」

 その頃高校生だった葉月は、激務である警官の仕事の合間に父親が連れてきて夜一緒に酒を

交わす新人の刑事を憧れの眼差しで見ていたものだった。当時の半藤は、もちろん今よりも

若く、学生時代に柔道で鍛えたにしてはスラリとした身体でリビングの入り口を多少窮屈そうに

くぐる姿が彼女には忘れられない。

 「弓野さんから聞いたんですけど、城田さんは社長にスカウトされてここに来たって本当

ですか?」

 脳裏に浮かべた若い頃の半藤の姿を残しつつ、目の前の高浜の興味津々の顔を見やった。

 まったく、弓野さんは何でも知っているのはないか、という気分がしてくる。

 「スカウトなんて大層なものじゃないの。社長がこの会社を興した時、もう1人事務処理も

できる社員が欲しいと思っていた矢先に、たまたま他の民間会社で働いていた私のことを

思い出したのよ。ある程度気心も知れてるし、ちょうどよかったんじゃないかな?」

 わざと、そう一歩引いて言葉に出してみる。

 「ふうん・・・・・・。にしては、かなり城田さんに信頼を置いてますよね、もう右腕ですもん」

 「それは・・・・・・そうかな」

 「ま、俺から見ても城田さんの仕事の速さとさばき方は驚きですから。これだけデキる人が

側にいれば、社長も安心ですよね」

 「あら、そうだった、コーヒーもお入れしていなかったのね。身に余るお褒めの言葉を頂戴して、

やっとそのことに気づいたわ」

 ニッコリと笑って葉月は立ち上がった。

 「そんな、そういうつもりでヨイショしたんじゃないですよ。本当にそう思ってるんですから」

 高浜も笑いながら、慌てて両手を振った。けれど、彼女がいれたコーヒーが飲めることは

まんざらでもないようだった。

 部屋の隅にあるミニキッチンに行き、高浜の分と自分の分のコーヒーを煎れながら、突然

自分が働く会社に半藤から電話がかかってきたことのことを、昨日のように思い浮かべた。

 昼休みに喫茶店で落ち合って、数年ぶりに会う半藤を見て軽く驚いた。警官時代の彼は

もう少し線が細く、エリートで知的な雰囲気を持つ男性だったけれど、目の前にいる彼は

その頃よりいくぶんがっしりと、もちろん知的な雰囲気はかわらないがどこか野性味をおび、

そのミスマッチが不思議な魅力をかもし出す男性になっていた。髪を短くカットし、普通の

ビジネスマンとは一線を画すことは人目で分かった。

 同時に、そのとき葉月は彼に最後に会った日の姿を否応なく思い出し、胸が締め付けられる

ような想いにとらわれた。自分の父の責めの言葉に、ただ言葉もなくうなだれていた姿を。

 この人は、あれからいったい幾夜、眠れない夜を過ごしたことだろう。そう思って彼の顔を

眺めたことを、よく覚えている。

 

 カップにコーヒーを注いでいるその時、オフィスの電話が鳴った。葉月が慌ててキッチンから

戻り受話器をとる。

 高浜は、しばらく受け取った書類を封筒から出し眺めていたが、電話に応対している葉月

の声が急に低く切羽詰った響きを持ち始めたので、いぶかしげに顔を上げる。彼女は立った

まま受話器を握り締め、なにやら慌ててメモをしている。

 電話をいったん切り、すぐさま短縮ダイヤルをしてまた耳にあてる葉月に、高浜は驚いて

何事ですか、と小さくたずねた。説明する余裕がないのか、困惑顔で顔を小さく横に振りながら、

彼女は高浜の顔を見た。

 「城田です。今運転中でしょうか?」

 おそらく半藤の携帯電話にかけたようだ。葉月同様、高浜も息をひそめて事の成り行きを

見守る。 

 「先ほどSパークシティーの保安室から電話がありまして、弓野さんが勤務中に事故にあった

とのことです。はい。ええ、警備の最中に、目をつけていた相手から暴力を振るわれたようで」

 高浜が驚いて背筋を伸ばす。商業ビルの夜間警備員である彼にとっては、他人事ではない。

 「大崎総合病院に搬送されたとのことです。はい。今から向かいますので。ええ、また連絡します」

 

 病室に駆けつけた葉月に、弓野はにっこりと微笑んで見せた。

 「まあ、わざわざすみません」

 「弓野さん」

 頭にグルグルと巻かれた包帯は痛々しいが、そのほかは血色もいいし目立って

外傷はなさそうな弓野を見て、今までの緊張の糸が切れたように葉月はベッドサイド

の椅子に座り込んだ。

 「どうですか?痛みますか?」

 それでも、外の傷だけではないかもしれない。元気そうに見えてももしかして、

ということがある。葉月は再度、不安が胸を渦巻く。しかし弓野は、はっきりとした口調

で話し始めた。

 「本当にご迷惑をおかけしました。私が軽率だったんです、少し危険な感じの

する人間だと気づいていたにもかかわらず、単独で声をかけてしまった。しかも人前で」

 万引きをした人間に、それとなく声をかけるのは商品を持ったまま会計をせず店の

外に出た時点だ。その声をかけるタイミングや声音、態度は、非常に細心の注意を

払わなければ、相手がどういう反応をしめすのかわからないこともあって危険なのだ。

弓野のように10年のキャリアを持つ私服警備員でも、声かけはとても難しい瞬間だ。

 「相手が大きな男だったから、武器は持っていなかったにせよ揉み合ううちに弾き飛ばされ

てしまって。店の入り口角に、しこたま頭をぶつけてしまいました」

 「脳震盪を起こしたって聞きました」

 「ええ、意識がそれからないんです。気がついたら、このベッドの上」

 弓野は苦笑いしながら頭の包帯を指差した。その時、病室に小柄な男性が入ってきた。

 「主人です」

 弓野が葉月にそう紹介すると、弓野の夫は人のよい顔をほころばせてお辞儀をした。

葉月も慌てて頭を下げた。

 「初めまして、城田です。この度は、奥様を危険な目に合わせてしまってなんとお詫びを

申し上げたらよいのか」

 葉月は頭を下げるだけで精一杯だった。いえいえ、顔を上げてください、と弓野の夫は

顔つきどおりの柔和な声をかける。

 葉月が顔を上げることができないでいるその時、息せき切って今度は病室に半藤が駆け

込んできた。

 「弓野さん、大丈夫なんですか」

 沈着冷静な彼が、少し取り乱した様子でベッドにかけよる。葉月は半藤の出現で勇気

付けられ、顔を上げた。

 「大丈夫です、こちらこそ勤務中にご迷惑をおかけしました。私の力不足でこんなことに。

パークシティーにも、社長にも申し訳ないです」

 弓野が恐縮した様子で深々と頭を下げた。その仕草を手で制しつつ、半藤は彼女の夫に

気がついた。

 「ご主人ですか?」

 「はい」

 大変申し訳ありません、と、大きな身体を深々と折り曲げて頭を下げる。弓野の夫の方が

驚いて両手をぶんぶんと振る。

 「S・H総合警備の半藤です。奥様をこのようなことに巻き込んでしまい、私の不行き届きで

した。本当に申し訳ありません」

 葉月とまったく同じ言葉を言う半藤の横顔を、葉月は畏敬の念で見て、一緒にもう一度

弓野と夫に頭を下げた。弓野の夫は、気の毒なほど顔を赤くしてとまどいながら手を何度も

ぶんぶんと回し、どうぞ頭を上げてください、と繰り返した。

 「主治医に今確認しましたら、家内の傷は頭の外傷だけでそのほかは全く問題ないそうです。

今晩は大事をとって入院しますが、明日は家に帰ることができますので」

 そうですか、と揃ってほっと安堵した半藤と葉月を、弓野夫婦は微笑んだ顔で見やった。

 「こちらの方こそお詫びしなければならないですよ、半藤さん。家内はそりゃあ正義感の

塊のような奴ですから、若い頃から私も冷や冷やすることばかりでしたよ。運良く、天職とも

言えるこの仕事に半藤さんに拾ってもらって、家内もですが私も感謝の気持ちでいっぱい

なんです。何しろ、この仕事を始めてからみるみる表情がいきいきして毎日楽しそうなんです

から。そういう家内を見るのは、いいものですよ」

 「・・・・・・そう言っていただけるとこちらも・・・・・・」

 半藤が言葉に詰まったように、もう一度目の前の2人に頭を下げた。

  

   

Background photo by  MIYUKI PHOTO

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