+++ ‘開かずの2120’ +++
伯母の経営していたペンションが、今年閉鎖された。そして、‘開かずの2120’に足を踏み入れるため、
私は高知を後にした。
熊本のとある村でひっそりと経営されていたそのペンションは、昔から私の好奇心を惹き付けてやまない
存在だったのに。残念だ。
今私は、その村へ向かうバスに乗っている。熊本駅からローカル線に乗り換えて50分。さらにそこから、
この1時間に2本のバスに乗って40分。昔通いなれた道とは言え、ここ5年以上は来ていなかったので、
さすがに疲れた。
乗客は、私と中年の女性だけ。私は一番後ろの窓際に座って、組んでいる足を組替えた。
窓から見える、新緑の景色を眺める。もうすぐしたら、私が降りるバス停が見えるはずだ。そこを降りて
ちょっと歩くと、山奥へと続く道がある。にわかに人里離れた風になるので、多分今日は少し用心しないと
何だか不安だ。
10年前オープンしてからは、若い女性グループやカップルがペンション近くの温泉を利用しがてら
宿泊する、というパターンで、けっこう繁盛していたように思う。
その頃高校2年生だった私は、父や母に連れられて高知の家から九州に向かい、この山奥に近づくたびに、
胸が高鳴って仕方がなかった。
そして、緑の森を抜けて真っ白な洋館が見えたとき、まるで海外ミステリ小説を読んでるような一種空恐ろしい
感覚に、多感な私は肌をぞくりとさせていた。
「暦さん、こちらへきて、お座りなさい」
あれはいつだっただろうか、私が小学校3年生ぐらいの夏休み。まだ高知にいた伯母は、住んでいたマンション
に遊びにいった私を手招きして呼んだ。
当時伯母は30代半ばだったと思う。大人になって知ったのだが、そのころ伯母は街の繁華街でスナックの
ママをしていた。私が遊びに行った日は、確か店休日だった。映画のワンシーンで見るような真っ白なガウンを着て、
伯母はソファにしなだれかかっていた。
伯母といえば、抜けるような白い肌。真っ黒の瞳。腰まであるつややかな髪。赤い口紅。
あかぬけて、アンニュイで、金木犀のような柑橘系の香りがする女性だった。
幼い私は、自分の母親が田舎の主婦、という感じが否めないので、本当に姉妹だろうか、と疑うほどだった。
そして、この伯母を見るたびに、何となく近寄りがたいような、でも髪や顔に触れてみたいという欲求に駆られていた。
「暦さん。あなたは、絶対、幸せになりなさい。最後は、いい男性と、めぐり合うよう、努力するのよ」
伯母の横に座らされた私は、伯母の黒い瞳に覗きこまれながら、そう言い聞かされた。
「姉さん、暦はまだ3年生よ。やめてよ・・・・・・男の話なんか」
母は苦笑いをして、身体が深く沈みこむ質のいいソファの上で落ちつかなさそうに腰をもじもじ動かしていた。
「最後はいい男性と、か・・・・・・」
バスを降りて、ゴールデンウィーク中のうららかな陽気に少し汗ばんだ私は、眩しい太陽を見上げた。
先月、彼氏と別れた私には、伯母の言葉がまざまざと浮かんでは消える。
男性関係はかなり華々しかった(と親戚の中では噂されていた)伯母の言葉は、変に重みがある。
私が最近別れた彼は、5歳年上の男性。社内恋愛だった。情けない男だった、なぜあんな男に身体を許したのか、
我ながらバカだった、と後悔する。主任候補研修や試験でナーバスになっている私の心は、隙だらけだったのか。
その結果が、24歳からの2年間をあの男に捧げるという無駄な行為を招いてしまった。私も、子供だった。
車一台がかろうじて通れる分かれ道を右に進んで、更に10分ほど奥へ。
そこに、白い洋館のイメージて建てられたペンションはあった。
幼い頃のイメージ通り、更に今は新緑の季節、森のうっそうと茂った木々が、洋館の白さを際立たせている。
昔と違うことは、そのペンションはもうつぶれたこと。そして、伯母は死んだことー。
伯母は、このペンションに理想を見すぎたのだ。とにかく、贅沢に。予算などおかまいなしに、お洒落に。窓ガラス
1枚1枚を見ても、私にはよく分からなかったが伯母によると光の屈折も考えられた高価なものだ、そうだった。
部屋も、1泊13,000の料金にしてはまるで一流ホテルのようにしていた。ドアの木材もこだわり、縦にルームナンバー
を書き込む外国風なセンスをうりにしていた。
食事も、伯母が高知時代の交友関係を駆使して、一流ホテルのシェフを雇い最高の食材を使っていた。
1度、大学1年の夏(今思うと、これが伯母に会った最後の年だった)、伯母に尋ねたことがあった。
採算は取れているのか、と。
食堂の朝の光の中微笑んだ伯母は、白い顔をさらに白くさせて何も言わなかった。ただ、その時も、こう言われた。
「暦さん。あなたは幸せになってね」
伯母が癌で亡くなった後、ペンションの中にある自室から、私宛ての手紙を見つけたので郵送する、と、熊本に住む
従姉(母のもう1人の姉の子)から連絡があった。
高知の家でそれを受け取り封を開けると、そこにはただ、部屋の鍵が一本、ポロンと入っていた。銀色の、年季の入
った鍵。
伯母は何を私に伝えようとしたのか。この鍵は、なんなのか。私は思い悩んで、その従姉に電話をした。
「鍵?伯母さんも、突拍子もないものを残したわね・・・・・・鍵ね・・・・・・」
従姉はしばらく考えて、あっ、と小さな声をあげる。
「そう言われれば、伯母さんが入院してあのペンションが閉鎖されたとき、ちょっと周りの集落で噂がたったのよね・・・・・」
「噂?」
「うん。伯母さんのペンションって、村では有名というか。伯母さんが村の人たちと交流を持たなかったでしょう。
だから余計、噂の的になるっていう感じよ。どうもね、」
と、ここで従姉は言葉を切った。私は少し汗ばんできた。従姉の口から何が飛び出すのか。
「ペンションの中に、2120号って部屋があるの、知ってる?」
「2120・・・・・・。確か、2階の奥の部屋でしょ?」
「そう。伯母さんも、妙な番号のつけ方したものよね。で、過去ペンションに泊まった人たちの噂が広まってるんだけど、
その2120号ってのは1度も客が泊まったことがない、開かずの部屋なんですって。聞いたことあった?こんな話し」
私は受話器を持ったまま、首をかしげた。聞いたことは1度もない。
「私もないんだけど・・・・・・。でも、ペンションが閉鎖された後も、村の人が2120号の部屋の窓に、黄色い光が見える、
って言ってたのを思い出したわ」
私は背筋がぞっとした。何?それ・・・・・・。
「夜なんか近くを通っても、ボオっと浮かんでいるらしいんだって、その光が。で。私が思うに・・・・・・」
「この鍵、その部屋の鍵ってこと?」
従姉は、力強く頷いた。そうかもしれないよ、と。
「伯母さんがどういうつもりで鍵を残したのか、ちょっと分からないわね。でも確かなのは、暦ちゃん、伯母さんにかわい
がられてたもんね。あの子はきっと美しくなるって、いっつも言ってた。私にはそれが、‘自分の血を受け継いでいるの
だから、キレイにならないはずがない’って自信に聞こえて、子供心にイヤだったけどね」
従姉は、苦々しげにそう言った。あなたこそ、伯母さんを理解しようとしていなかったではないか。そう思ったが、私は
もう何も言わなかった。
その噂が本当かどうか、私には分からない。
ただ、何かに導かれるようにして、今伯母のものだったペンションの前に立った。少しだけ、背筋が寒い気がするけれど、
あまり気にしないようにする。
あの伯母の思いを、完結してあげたかった。
敷地内の草は伸び放題で、昔真っ白だった建物も、心なしかくすんでいるように思える。
そこへ、約束していた時間ピッタリに、車が分け入ってきた。この土地を管理する不動産会社に連絡し、少し中を見せ
てくれと頼んだ。快く承諾してくれたその会社は、当日職員を現地に向かわせる、と約束をしてくれた。
車から降りてきたのは若い男性で、私と同じか少し年下に思えた。なんとなく真面目な、感じのいい男性だった。
彼は挨拶して、私に名刺を渡した。小林不動産、小林尚樹。
「社長さんなんですか?」
小林というその職員は、はにかんだように笑った。笑うと、八重歯が見える。
「いえ、自分の父親が経営しているんです」
そうですか、と、私もつられて笑う。
「早速行きましょう」
小林さんが前に立って先に進む。ギギっと、大きなドアが開いた。
ペンションの内部は、暗く、誇りっぽかった。シン、とした空気が、私の体にまとわりつくようだった。家財道具一式
そのままで、ここは売りに出されるらしい。
昔にここへ来た思い出や、当時の賑やかだったロビーの風景が思い出されて、私はしばらく胸がいっぱいになった。
2階へ上がる階段に足をかけたときに、小林さんが私のほうを振りかえった。
「今から向かう2120号室は、やはり私たちでも鍵を持っていないんですよ。鍵自体が、行方不明なんです。ですから、
やはりそれがそうなんでしょうね」
私が手に持った銀色の鍵を見つめながら、小林さんは言った。そして、決まり悪そうに付け加える。
「聞いていらっしゃいますか、部屋のこと」
はい、と私があまりにあっけらかんと明るく言ったからであろう、彼はちょっと驚いた顔をして私をまじまじと見下ろしていた。
でもすぐに、また八重歯を覗かせて笑い、では、と再び上に上がっていった。
2階の長い廊下の奥に、その部屋はある。ギシリ、と、板張りの廊下がきしむ中、私は前を行く小林さんに質問した。
「伯母を、ご存知なんですか?」
「1度、お姿だけを拝見したことがあります。めったに市内には来ない方でしたから。うちの会社に土地管理の話しで
見えた時、ちらりと。親父が担当してましたから、ちゃんとお話ししたことはないのですが」
そして振り向いて、私を見た。でも、あなたはよく似ていらっしゃるような気がしますが、と付け加えた。よく言われて
ました、と、私も笑って返す。実際、私は伯母によく似ていた。
部屋の前に来た。小林さんが私の後に退いて、私は鍵の差し込み口に鍵を持っていった。‘開かずの2120’が、
今開くんだ。私は、手に汗が浮き出るほど、緊張してきた。伯母さん、この部屋は、何の部屋だったの?
ギ・・・・・・と音がして、ゆっくり私はドアを開けた。誇りっぽい空気にむせ返るようになりながら、私は足から部屋の中に
入った。
他の客室と、大して変わらない造り。家具類、ベッドやテーブルもきちんとあった。けれど、何よりも、私の目に飛び
込んできたもの。それは、窓を背にした目の覚めるようなー。
黄色の振袖。黄色の振袖が、掛けられていた。
「・・・・・・」
私は夢遊病のように近づき、目の前に掛けられた振袖をそっと触った。黄色地に、深い桃色や赤の牡丹のような
花が、大きく描かれている。沖縄の着物のような、そんな鮮やかな色彩だ。
カーテンが開けられた窓から入る自然光が、うっすらと振袖を光らせて、文字通り息を飲むほどの豪華さだった。
背後で小林さんが、あ、と声をあげた。振り向くと、テーブルに封筒があり、彼はそれを指差した。
私が手に取って開けると、1枚の手紙が入っていた。そこには、達筆な伯母の字でこう書かれていた。
‘暦さん、私が母からもらった大事な振袖です。あなたに似合うはずと、誰の目にも触れさせず大切にしてきました。
暦さん、自分を磨いて。最後には、いい男性に愛されるのよ。’
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